領地争い
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
人生にはさまざまな表情があるものです。
理屈を通して自分の主張が通れば、それでよいという人もいます。
しかし反対に損をしても後の利益を確保するという考えの人もいるのです。
ほんのわずかな価値観の差で損得が決まっていきます。
『十訓抄』(じっきんしょう)という本をご存知でしょうか。
十の教訓をそれぞれ具体例にそって書いた読み物です。
成立は建長4(1252)年とされています。
編者はよくわかっていません。
儒者として知られた菅原為長か、六波羅二臈左衛門とする説が有力です。
しかし他にも数人の名が残っています。
この書物は後の説話集に大きな影響を与えました。
とくに『古今著聞集』と重なる内容のものが多いのです。

十の教訓にはどのようなものがあるのでしょうか。
中心は儒教のそれぞれの徳目にそった説話が収められています。
基本はどれも人間が生きていくのに大切なことばかりです。
「人に恵みを施すべきこと」「傲慢を禁ずること」「人を馬鹿にしないこと」
「友を選ぶべきこと」「よく考えること」などです。
どれもがあたりまえといえば、それまでのことですが、なかなか実行できないのが人間というものです。
それを具体例を示して、わかりやすく諭すように論じたのが、この本なのです。
全編で約280の話が所収されています。
鎌倉初期の人々の思想をよく反映しているといえるのではないでしょうか。
本文
六条修理大夫顕季卿、東の方に知行の所ありけり。
館(たて)の三郎義光、妨げ争ひけり。
大夫の理ありければ、院に申し給ふ。
「左右なく、かれが妨げをとどめらるべし」と思はれけるに、とみにこと切れざりければ、心もとなく思はれけり。
院に参り給へりけるに、閑(しづ)かなりける時、近く召し寄せて、「なんぢが訴へ申す東国の庄のこと、今までこと切らねば、『口惜し』とや思ふ」と仰せられければ、かしこまり給へりけるに、たびたび問はせ給へば、
わが理あるよしを、ほのめかし申されけるを聞こしめして、「申すところは言はれたれども、わが思ふは、かれを去りて、かれに取らせよかし」と仰せられければ、「思はずに、あやし」と思ひて、
とばかり、ものも申さで候ひければ、「顕季が身には、かしこなしとても、こと欠くまじ。国もあり、官(つかさ)もあり。
いはば、この所いくばくならず。義光は、かれに命をかけたるよし申す。かれがいとほしきにあらず。顕季がいとほしきなり。
義光はえびすのやうなる者、心もなき者なり。
やすからず思はんままに、夜、夜中にもあれ、大路通るにてもあれ、『いかなるわざわひをせむ』と思ひ立ちなば、おのれがため、ゆゆしき大事にはあらずや。
身のともかくもならんもさる事にて、心憂きためしに言はるべきなり。

理にまかせて言はんにも、思ふ・憎むのけぢめを分けて定めんにも、かたがた沙汰に及ばんほどのことなれども、これを思ふに、今までことをきらぬなり」と仰せごとありければ、顕季、かしこまり、悦(よろこ)びて、涙を落して出でにけり。
家に行き着くやおそき、義光を「聞こゆべきことあり」とて呼び寄せければ、「人まどはさんとし給ふ殿の、何ごとに呼び給ふ」と言ひながら、参りたりければ、出で会ひて、「かの庄のこと申さんとて、案内言はせ侍りつるなり。
このこと、理のいたる所は申し侍りしかども、よくよく思ひ給ふれば、わがためは、これなくとてもこと欠くべきことなし。
そこには、これをたのむとあれば、まこと不便なりと申さんとて、聞こえつるなり」とて、去文を書きて取らせられければ、義光かしこまりて、侍に立ち寄りて、畳紙(たたうがみ)に二字書きて奉りて、出にけり。
そののち、つきづきしく、昼など参り仕ふることはなかりけれども、よろづの歩きには、何と聞こえけん、思ひよらず、人も知らぬ時も、鎧着たる者の五六人、なきたびはなかりけり。
「誰そ」と問はすれば、「館刑部殿の随兵に侍り」と言ひて、いづくにも身を離れざりけり。
現代語訳
六条修理大夫藤原顕季(あきすえ)卿は東国の方に知行する所がありました。
ところがその場所が源三郎源義光の強奪に遭い、争いとなっていたのです。
顕季の方には筋の通る道理があったので白川院に訴え申されました。
「あれこれ言う間もなく、ただちに義光の強奪をお差し止めなさるに違いない」とお思いになっていたものの、すぐに裁定が下るというわけではありませんでした。
顕季卿はどうなっているのだろうかと心もとなく思っておりました。
さて、顕季卿が白河院の御所に参上なさっていた折、周りに誰もいない静かな時、院はお側近くにお召し寄せになり、「そなたが訴え申す東国の荘園のこと、今に至るまで裁きを下していないので、そなたはとても無念に思っていることであろう」とおっしゃられたのです。
顕季卿は恐れ多いことと思い、身をかたくしてかしこまっておりましたが、何度もお尋ねになるので、自分の方に道理があるということをそれとなく申し上げなさいました。
院はそれをお聞きになって、「そなたが申す事はまったくその通りである。しかし私はあの土地は手放してあの者に取らせるのがよいと思っている」とおっしゃられたのです。
顕季卿は思いがけない院の御言葉で、その真意をはかりかねました。
しばらくは何も言わずに控えていたので、院はこう続けられたのです。
「そなたにとって、あの土地がなくても困ることはないに違いない。ほかにも国もあるし官職もあるのだから。いわばあの土地はたいしたものではなかろう。
ところが義光はあの土地に命をかけていると聞いています。
あの者をかわいそうと思っているのではないのです。

そなたが気の毒に思われるからなのです。
義光という男は荒くれの田舎武士のような者で、慈悲の心などまったくない男であると聞いています。
心穏やかならず思えば、その命ずるままに夜、夜中であれ、大路を通っている時であれ、どんな仕打ちでもしようと思い立つことに違いないのです。
そうなったならばそなたにとって大変な事になるのではありませんか。
そなたの身がどうこうなるだけではなく、後々まで悔やまれる無念の話として噂になることに違いないのです。
そなたの申すように処断を下すことはたやすいことです。しかし今まであれこれと考えてきたので、今に至るまで結論を出さなかったのです」とおっしゃいました。
顕季は心から恐縮して、涙を流しながら、退出していきました。
家に帰り着くや、ただちに義光に「申し上げたいことがあります」と呼びかけを行ったところ、「何事をもってのお呼びなのでしょう」と言いながら参上してきました。
顕季卿は義光と対面して「例の荘園のことについて申し上げようと思い、ご都合をうかがわせました。
道理のおもむくところは前々にも申し上げた通りでございますが、よくよく考えますに、私にとってはあの土地はなくとも困ることはありません。
あなたはあの土地に頼みをかけているとのことで、心からご同情申し上げているということをお伝えいたしたいと思いました」と言って、譲渡の証文を書いて手渡したところ、義光は慎んで受け取ったのでした。
義光はその後、侍所に立ち寄り、懐紙に名前を書いて差し置いて、臣従の約を誓って退出していきました。
その後義光は、家臣風のお仕えなどはしなかったものの、顕季のあちこちの外出にも、どういうふうに聞きつけたのか、思いも寄らない、人も知らない時などにも鎧を着た者が五、六人、付き従わないことはなかったのです。
「誰だ」と尋ねさせると「館刑部殿の随兵でございます」と言って、どこに行くにつけれも周りから離れることはなかったということでした。
啓蒙的な要素
顕季と義光の領地争いの話です。
荘園の取り合いというのは、この時代のメインテーマですね。
寺や貴族などに寄進した形にして、自分の土地を守ろうとしたという話を聞いた記憶があるはずです。
寄進地系荘園がそれです。
彼らの絶大な権威を借りて「不輸不入の特権」を得るためでした。
つまり税金逃れと役人などの立ち入りを拒否できる権利を両方手にいれることができたのです。

それだけに顕季から譲渡の証文をもらった義光は嬉しかったに違いありません。
感謝の印に義光はその後、自分の家来を使って顕季の身辺警護を行います。
この判断に至るまでの院の深慮が実によく描かれていますね。
その裁定を良しとした顕季も賢明です。
啓蒙的な要素が強いとはいうものの、損をしても得をとれという、後の商人道徳に通じる大きな意味を持っている話なのです。
それだけ土地に命をかけていた彼らの生活ぶりがよく見えてきます。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
