紫式部日記
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は紫式部日記を読みます。
もともとこの日記は、中宮彰子が第一子敦成親王を産んだ時の様子を詳しく書き記したものです。
中宮定子が長保2年(1000年)に24歳で亡くなり、その後兄の伊周が死んだことによって、帝の後継問題は大きく揺れていました。
定子の子、敦康親王から、彰子の子、敦成親王への流れが一気に流れが傾き始めました。
当然、背後には彰子の父親、藤原道長の権勢があります。
女房の1人であった紫式部が、自分の仕える彰子の出産までの様子を、記録し、盛り上げるための背景がこの日記だったのです。
その記事の後に、清少納言や、和泉式部についての批評などが加えて書かれたため、より多くの人に読まれました。
さらにいえば、紫式部と道長との関係も、それとなく描かれています。
しかし深読みしなければ、相手がだれなのかもはっきりしないほど、叙述はぼかされています。
それだけに興味深い本なのです。
元々、他人にみせる気はなかったと思われます。
それだけに彼女の持つ批評眼の鋭さが際立っています。
あえていえば、自分の娘が中宮付きの女房になった時のマニュアルとして残しておきたかったにちがいないのです。
世をうまく渡るためには、後宮の人間関係や約束事を全て覚えておかなければなりません。
ところで紫式部と藤原道長の関係は、実にさまざまな解釈がされています。
NHKの大河ドラマでは、かなり踏み込んだ解釈をし、視聴者の想像をたくましくさせました。
しかし現実には何もわかっていないというのが真実なのです。
確かにそれらしい描写がいくつか『紫式部日記』には残っています。
しかしその相手が誰であるのかも、本当のところはわかっていません。
だから面白いということも言えますね。
彼女の恋愛に関する部分は『紫式部日記』の中でもスピンアウト企画とでも呼べるのかもしれません。
妻問い婚の時代
一夫一婦でないこの時代の恋愛は今とは全く形が違います。
夫は女性の実家で暮らすのが基本ですから、男たちは、何人もの女性の家を渡り歩いたのです。
それが許された時代です。
その典型が光源氏だといっていいでしょう。
紫式部はまさに当時の男性の生き方を、女性の厳しい視線で描き切りました。
この両者の関係をいかようにも想像しふくらましてきたのは、むしろ後世の作家たちです。
今年放送したドラマもまさにその1つと言えるでしょうね。
研究者は、あまりにも荒唐無稽なので、全く見ないという人が多いという話を聞きました。
夏山かほるの『新紫式部日記』と山本淳子の『紫式部ひとり語り』はかなり踏み込んだものです。
とくに『ひとり語り』の方の内容は筆者が紫式部その人になったような書き方で、自分のすぐそばに『源氏物語』の作者がいるような気にさせてくれました。
大河ドラマの脚本家、大石静もかなり参考にさせてもらったのではないでしょうか。
このドラマは男女の愛情と権力への執着を同時に描き出しています。
天皇制と摂政関白という地位、さらには自分の娘を後宮に入れ、次期天皇を生ませるという皇統制度のシステムをみごとに描き出しています。
そこに一番深くからむのが、中宮彰子の女房であった紫式部と、彰子の父、道長との関係です。
男女の関係がこの両者にあったのかどうか、それは誰にもわかりません。
それは清少納言と紫式部の関係についても同じです。
物語といえば、これを核にして権力との関係を描かなければ、クライマックスがありません。
そのためにも、一条天皇の愛情が定子から彰子にうつるよう画策し、そのための重要なアイテムが紫式部の書く『源氏物語』であったとする解釈が一番納得を得やすいのです。
もちろん父親、道長の野望は式部にも乗り移ります。
そこに微妙な男女の愛情が重なることもありうるでしょう。
不倫などという観念は現在のもので、当時はそのようなことは考えられませんでした。
男女の自然な流れと理解するのがいいと思われます。
日記の記述
実際に『紫式部日記』を読んでいると、当時の宮中の様子がよくわかります。
大晦日に盗賊が入ったシーンなどは、実に迫力があります。
この日記はまさに備忘録そのものです。
その間に「消息文」と呼ばれる、紫式部の意見を述べた書簡体の部分がはさまれています。
この2つの部分のコントラストが、この日記の味わいでしょうか。
中宮彰子が実家のある土御門邸へ里帰りし、めでたく敦成親王(後一条天皇)を出産するあたりの描写がクライマックスです。
ぜひ、注釈書などを片手に読んでみてください。
現代語に翻訳したものもたくさんあります。
また興味深いのが、和泉式部、清少納言、赤染衛門に対する人物描写です。
特に清少納言に対しては辛辣ですね。
性格的に許せない部分が多々あったと思われます。
特に漢字が読めることを吹聴して回るところが癇にさわったようです。
奔放なふるまいのできる彼女に対して、紫式部は嫉妬心を持っていたに違いありません。
漢文の読める女性として、この2人は双璧でした。
それだけに、互いにライバル視していたことは間違いありません。
しかし頻繁に会える状況ではありません。
そういう意味でNHKのドラマはあまりにも事実関係を飛び越えています。
最後に道長との関係について書かれたと思われる部分を抜き出してみましょう。
167話の原文
『源氏の物語』、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる。
「すきものと 名にしたてれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ」
たまはせたれば、
「人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ めざましう」
と聞こゆ。
現代語訳
「源氏物語」が中宮様の御前に置かれているのを、道長様がご覧になりました。
いつものように、世間話となったついでに、道長様は梅の実の下に敷かれていた紙に、歌をお書きになられたのです。
「梅の実は、酸っぱくて美味しいものと有名なのですが、それを見つけた人が、枝を折ることなく過ぎ去ることはないと思うのですが」
(あなたは好き者として大変有名なのですよ。
そうなると、貴方を口説くことなく通り過ぎてしまう人などはいないと私は思うのですが)
と、くださったので
私は、どなた様にも、言い寄られたことなどはありません。
一体誰が、好き者などと言う、とんでもない噂を流しているのでしょうか。
全く訳がわかりません。
168話の原文
渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、恐ろしさに、音もせで明かしたるつとめて、
よもすがら水鶏(くいな)よりけになくなくぞ 槙の戸口にたたき侘びつる
返し、
ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ あけてはいかに悔しからまし
現代語訳
渡殿で寝た夜のことでした。
誰とはわかりませんが、戸を叩く人がいたようです。
私は、とにかく怖ろしくて声も出さず音も立てずに、一夜を明かしたのです。
その朝早くのことです。
槙の戸口を開けて欲しいと思い、開けてくれないので戸を叩き続け、つらくて一晩中、水鶏のように、それ以上に泣き続け、とうとう、嘆きの朝を迎えてしまったのです。
と道長様から送って来たので、お返をしました。
とにかく、ただ事ではないような、戸の叩かれる音でしたけれど、おそらく水鶏と思いましたので、もし、戸を喜んで開けたとしたら、どれほど恥ずかしい思いをしたことでしょうか。
注 水鶏(くいな)は、水辺に住む小鳥。鳴き声が、戸を叩く音に似ていると言われている。
すきものとは
実際に道長が戸を叩き続けたかどうかは不明です。
あるいは話を面白くするために、こういう歌に思いをこめたのかもしれません。
紫式部の文章は当時としてはあたりまえのことですが、主語の省略が非常に多いのです。
それは『源氏物語』を読めばすぐにわかります。
さらに言い回しが長く、一読して理解するのは、大変です。
衣装についての記述が多いのも特徴の1つです。
特に色遣いについては細かく、難しい時代であったことがよくわかります。
文章を読んでいるとよくわかることですが、彼女は漢文や歴史の知識が豊かで、的確な判断力を持っています。
彰子の教育係としては最適だったと思われます。
彼女を見いだした道長の情報力はみごとです。
清少納言との性格の違いもはっきりしています。
紫式部は他人の目を、いつも気にしている表面的には静かな人でした。
しかし内面は激しいものがあったに違いありません。
2人の性格の差に注意して文章を読むと、実に味わい深いです。
特に清少納言の記述については辛辣です。
ライバル心はかなりのものだったと推測されます。
中宮定子のサロンがいかに華やいで知的なものだったのかを、過剰なくらいに描写していることが許せなかったのでしょう。
その点だけを注視して、2人の関係を追いかけていくだけでも実に面白いです。
関心のある人はぜひ関連の本を読んでみてください。
紙が貴重だったこの時代に、このような作品が残されたということの意味がよく理解できるはずです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。