子どもと自然
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は子どもの遊びの現状を分析し、現代の世の中をみていこうと思います。
小論文のテーマとしては、さまざまな角度から書くことができる内容です。
筆者はサル学の第一人者、河合雅雄氏です。
現代を取り巻く子どもの世界を、さまざまな角度から掘り下げたいい文章です。
論点のポイントはいくつかあります。
あまりにも自然環境が人工化したことに起因する現象が、大きな問題だというのです。
その結果、子どもたちは外で遊ぶことを忘れてしまいました。
人類が本来持っている自然との関係が、あまりにも急速に変化したのです。
子どもたちの発達の仕方も大きくかわっています。
不登校児の発生や、いじめなどの現象も多く報告されるようになりました。
なぜなのか。
1つの理由は子どもが群れなくなったことだ、と筆者はいいます。
遊びの中心にモノがあり、個室でモノ遊びにふけるようになったことが原因として考えられるというのです。
与えられたものを受動的に受け入れることに、慣れすぎてしまいました。
その結果、自分にとって快楽を与えないものに対して、非常に嗜虐的な態度を取りがちです。
我慢という概念がありません。
強いものに対しては、弱い表情を示す反面、弱い者には容赦ないという態度を見せるのです。
嫌なこと、辛いことから逃げ、より快適な状況を簡単に得ることに執着します。
親もそれを特に否定しません。
経済的な格差が広がる中で、子どもたちは自分の世界にこもりがちになり、特定の相手とだけ交流するオタク的な世界観を持ちつつあるという論点です。
さっそく課題文の後半部分を読み、自分にひきつけて文章を書く練習をしてみましょう。
課題文
大学で新入生への抗議の際にびっくりするのは、ノートの筆記用具も持たず、手ぶらの 学生が多いことだ。
ノートを取るように何度注意しても、なかなかなおらない。
質問をすると、積極的に答える学生はまずいない。
一様に当てられては困るといった態度が見える。
指名して答えさせると、「知りません」とあっさり逃げてしまうか、答えても実に幼稚な表現に終わってしまう。
わかっていないのかというと、そうでもない。
ゆっくり聞きただしてみると、かなりの程度に「理解」はしている。
だが、上記のような結果になるのは、どうやら2つの理由によるものらしい。
1つは間違うことを極端に回避していること、もう一つは自分の考えをきちっと表現する能力が低いことである。
いったいどうしたことかと考えてみて、はたと気がついたのは、彼らはテレビを視聴するごとく講義に対応しているのだということである。
その場で、ああわかった、面白い、つまらない、といった評価をしつつ講義は流れていく。
講義の終了は、テレビのスイッチを切るのと同じことなのだ。
理解力はかなりよいのだが、それを再生する装置が不十分なのである。
ましてや、講義によって自分自身の関心を一層深めるとか、疑問を持つとかいうこともなく、講義はテレビの画面として彼らの頭の中を流れていくに過ぎない。
受信装置としての快楽は、自分の好みのものだけを選択しうるということにある。
数あるテレビのチャンネルから、好みの番組だけを選択し、楽しみにひたるという状況に浸れるということだ。
一方、能動的に快楽を操作できるものがある。
電子玩具やゲームなどがそれである。
手強いプログラムもあるが、ともかく自分の思うままに操ることができる。
そして、うまくいかない時は、捨てるか壊してしまえばいいのだ。
そこでは子供は絶対者として君臨する。
子供たちは密室での一人遊びの中で、極端な受動性と刺激的な能動性を身につける。
自分より強いものには、カタツムリのようにちょっと触られただけで体をすくめ殻の中にこもるが、弱いものには容赦のない攻撃性を発揮するという二重性格的なパーソナリティを身につけるようになる。
賛成の立場
設問はこの文章を読み、あなたが考えたことを800字以内で述べなさいというものです。
ポイントは現代の生活の中で、子どもたちの行動にどのような特徴があるのか、最初にまとめることです。
読書、音楽、テレビとの関係などを自分の問題として、まず考えてください。
そうするだけで、筆者の論点に対する考え方があぶり出されてきます。
課題文では子どもたちが密室に閉じこもり、モノと遊んでいる様子が描写されています。
あなた自身はどうでしたか。
どのような子ども時代を過ごしましたか。
群れて遊ばないと言われても、少子化の時代です。
モノとの一人遊びに向かってしまう傾向を、否定することはできません。
問題はそれが好ましいことではないという認識を、どの程度持っているのかということです。
他者との関係の中で、自分の立ち位置を判断していく訓練をするべきだという論点は当然あるでしょう。
だから1人遊びは極力避けなくてはならないという、筆者の論理に近いまとめ方は無難です。
しかしこのままではあまり特色がないともいえます。
どうしても筆者の論点のあとを、ただついていったような図式から抜けきれないからです。
それならば、いっそNoの立場を強くするという書き方も可能です。
反対の立場
この場合は「確かに~しかし」の構文が有効です。
次のようなバターンです。
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確かに筆者の論点には一理ある。
受動的な処理の仕方だけをする子ども時代を過ごせば、能動的な活躍をする可能性を捨てているのと同じからである。
しかしだからいって、それがすべて悪いことなのだろうか。
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この書き方は小論文の参考書には実によく出てきます。
このパターンさえ使えば、必ず合格できると宣伝してある本もあります。
だからといって安心してはいけません。
この論点を使う場合は、それ以降に示された論理に強い整合性が必要です。
たとえば、ここでは「情報化社会」というキーワードを代入することで抜け出せます。
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今日の社会が、いかに情報化されたものかは誰もが知るところである。
幼い頃から部屋にこもって情報端末を操る能力を身につけることはけっして無駄ではない。
というより、プログラミング的な発想力を持つ人間は、大きく成長する可能性を持つのだ。
それを頭ごなしに否定する姿勢は、もうはるか過去のものなのではないか。
AIとの共生を図る生き方は、けっして淘汰されることはないのである。
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こういう論理の進め方で、文章を先に伸ばすことも可能です。
一般的にNoの立場を貫いた方が、採点者には新鮮に見えることが多いようです。
ただしその場合も論点の正確さは必要です。
なんとなくその方が時代のニーズにあっているからといった書き方では、あまりにも曖昧なのです。
これから文章を書いていく上で、2つの場合をかき分けてみる練習をしてみてください。
どちらの立場からでも自在に論点を整理し、書き分けるのです。
ディベートの場合を想像すれば、すぐに方法論がみえてくるでしょう。
小論文の勉強はディベートの派生形だといってもいいくらいなのです。
ぜひ、自分で書いてみてください。
そして先生にみてもらうことです。
皆さんの日々の研鑽に期待しています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。