学ぶことの意味
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は学ぶことの意味について考えます。
都立高校の入試問題を毎年チェックしていると、必ずこのテーマが何校かで出題されているのに気づきます。
大学でも同様です。
学校は基本的に勉強する場所ですからね。
なぜ入学したいのか。
ここで何を学びたいのか。
それはあなたの人生にどういう意味があるのか。
質問したいのは当然かもしれません。
面接などで質問するのはもちろんのこと、さらに突っ込んで小論文のテーマにもなります。
あなたなら何を書きますか。
こういう設問に正対してきちんと文章をまとめる力が要求されるのです。
それが本当の国語力だからです。
どのような文体で、どんな語彙を使うのか。
採点者たちは、冷静に判断します。
その時、どのように文章をまとめるかで、あなたが本当に学びに足る人間であるのかどうかが、明確になるのです。
言葉はいきていますからね。
本当に怖いです。
設問にはさらにあなたの体験や見聞とからめて書きなさい、という注文も当然加えられるでしょう。
このようなタイプの文章を書くときには、暴走しすぎてはNGです。
課題文があったら、なおのこと。
どこへ着地をするのをある程度読み込んで、文章をまとめてください。
基本的な論点
論点の着地点をどこにすればいいのか。
学ぶことは楽しいという考え方が基本です。
これだけは絶対にはずさない方がいいでしょうね。
「朋有り遠方より来たる」という『論語』にある孔子の言葉の通りです。
同じことを学ぼうとする人間との出会いが、あなたの人生を確実に豊かなものにします。
学ぶことは自分自身を成長させるとともに、人生の選択肢を増やすことにもつながるのです。
しかしそれだけではあまりにも通り一遍で、他の人との文章と違いがなくなる可能性もあります。
以下に、都立町田高校で出題された課題文を取り上げましょう。
ここでのキーワードは「想定外」と「想定内」です。
福島の大震災の後、よく使われた言葉ですね。
そこからどういう学びが最も理想的なのかという論点に発展させていけば、十分なのではないでしょうか。
出典は政治学者、佐々木毅氏の『学ぶとはどういうことか』です。
令和3年に出題されました。
長文なので、すべてをここに掲載することはできません。
しかし内容はある程度把握できるはずです。
じっくり読んでみてください。
設問は「学び」への取り組みについてあなたの考えをこれまでの体験、見聞をもとに400字以内で書きなさい、というものです。
課題文を読む以前に、設問をじつくり検討してください。
ここでは体験と見聞がキーワードです。
この両者がないと、評価は一気に落ちます。
本文
東日本大震災は基本的に「想定外」の出来事であった。
しかし関係当事者が口にする「想定外」という言葉にはつねに責任逃れのニュアンスがつきまとい、本当は「想定」すべきであった事柄を無視し、「想定外」という領域に逃げ込んでいるのではないかという疑いが残る。
実際「想定外」という言葉には不可抗力といった免責のニュアンスが含まれている。
人間世界では「想定外」の事態に対してさえ、何らかの判断を下さなければならない局面があるのも冷厳な事実である。
したがって「想定外」のことも考えておく必要がある。
さらには「想定内」での対策さえ十分にしてこなかったことを、「想定外」という言葉で弁解するのは論外である。(中略)
議論をある「想定」の範囲に無理に抑え込もうとする態度には、過去にこだわりすぎるという別の問題がある。
言い方を換えれば、これまでの「学び」に呪縛され過ぎ、発想の転換ができないという問題である。
「想定」なしに生きられないことと、特定の内容の「想定」しかないと思い込むこととの間には、雲泥の差がある。
この差を埋めるのが「学ぶ」ということである。(中略)
「学ぶ」という行いには「想定」の枠内での積み上げ的な「学び」だけを意味するのではなく、その枠を超えるという知的な行為がそれである。
これは自らがこれまで行ってきたことを乗り越える人間の能力といってよいが、これによってマンネリ化しがちな「学び」は「学び続ける」という能動的な知的な行為へと転換していく。
実際、人間はそれまでの「想定」が決定的に崩壊したり、破壊されたりすると、それまでの価値判断を見直し、あるいは、生き方を変えることによって新たな選択を行ってきた。
一定の「想定」に執着し、時にそれに殉ずることも人間の一つの生き方であるが、それまで「学んできた」ことを相対化し、それを乗り越えて新たに「学ぶ」こと、それによって生きることもまた人間の選択の中にある。
今度の大震災を契機にこれまでの生き方を考え直すといった発言が随所で聞かれるようになったが、それもこうしたことの現れと考えられる。
この選択と「学ぶ」というのは一体不可分の関係にあり、新しく「学ぶ」ことを通してそれまでの「想定」から自由になることは、「学ぶ」いう行為に内在する人間の自由の現れという言うことができる。(中略)
実際、自由な存在としての人間にとって、「学び続ける」ということは欠かせない生存条件である。
想定の枠を超える
「想定」なしに生きられないことと、特定の内容の「想定」しかないと思い込むこととの間には、雲泥の差があると筆者は言っています。
この表現の意味が理解できますか。
あらかじめ想定したことを積み上げていくだけが、学びではないと言っているのです。
その枠を自分で突き崩していったところに、あらたな「学び」の可能性があります。
筆者が言及しているこの基本のテーマを、最初にきちんと把握してください。
そこで次の問題が出てきます。
それは自分の経験や見聞の中に同じようなことがあったかどうか。
毎日学習している内容を超えて、自分が全く想像もしていなかった地平に辿り着いたことがあるのかどうか。
友人とのディスカッションの中で、今まで考えてもいなかった方向に進んだことがあるか。
確かに学校の勉強には、得点という分かりやすい指標があります。
しかしそれが必ずしも将来にそのまま通じるのかということになれば、それはまた違う話になるかもしれません。
今まで全く知らなかった専門的な仕事の存在を知る可能性もあります。
さらに新しい言語を学ぶことで、その背後にある文化観に触れることも可能です。
それはまさに想定していたことの外に積み重ねられた新しい経験なのです。
単純に言葉を覚えるというレベルではなく、その言葉が持っているものの考え方や歴史をを知ることにもなります。
日本という島国の文化とは全く違う領域です。
具体的にこういうことがあったと書くのはかまいません。
ただし字数を十分にチェックし、全体の構成とバランスを考えなくてはダメです。
想定の枠を超えて得た、新しい知の世界を少しでも示すことができれば、「学び」の意味を理解していると採点者は評価するでしょう。
その分だけ、確実に一歩合格に近づいたといえます。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。