小説『握手』
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
作家、井上ひさしが2010年に亡くなってから随分と月日がたちました。
早いものですね。
彼の芝居を一時はかなり見ました。
こまつ座の稽古場にも行ったことがあります。
楽しく、そして哀切な劇ばかりでした。
言葉遊びの多い初期の作品に比べて、後半は人間性の根幹に触れる作品が多かったです。
幼い頃、生活苦のためカトリックのラ・サール会の孤児院で過ごしたことはよく知られています。
そこでは数人の修道士たちが献身的な活動をしていました。
仙台の「光が丘天使園」がそれです。
そこに園児たちから『ジュルっこ』という名前で親しまれていた1人の修道士がいました。
小説『握手』の主人公ルロイ修道士なのです。
実は、『モッキンポット師の後始末』に登場するモッキンポット師と同一人物です。
カナダ人のブラザ ー・ジュール・ベランジェというのが本名です。
幼い井上少年は彼からたくさんのものをもらったのでしょうね。
小説を読むと、1人の修道士が今も生きているかのようです。
師は東京、函館、鹿児島の学生寮の舎監もしました。
一緒にお風呂に入ったり、遊んだり、独特の個性を持っていた人のようです。
『握手』は現在中学校3年の教科書に所収されています。
『ナイン』という井上ひさしの短編集に入っています。
文字通り『ナイン』という四谷しんみち通りにあった少年野球団の話もあります。
こちらの作品は高校の現代文の教科書によく掲載されています。
ぼくも何度か授業で扱いました。
こころ温まる短編
『握手』は心温まる短編です。
使われている表現は少しも難しくありません。
これは生前、井上ひさしがいつも言っていた言葉通りです。
むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く。
これが彼のモットーでした。
この小説には人間が1番大切にしなくてはならないことのいくつかが載っています。
『握手』という作品の面白さは大切な言葉の部分をしぐさで描いているという点なのです。
舞台は上野の西洋料理店とあります。
精養軒ですね。
恩師であるルロイ修道士と再会した時の話です。
師は重い病気にかかり、余命いくばくもないということをその時知ります。
どうしてわかったか。
彼が目の前にあるオムライスに手をつけないのです。
もう食べられなくなっていました。
その部分の記述は次の通りです。
「先生はどこかお悪いんですか。ちっとも召し上がりませんね」
「少し疲れたのでしょう。これから仙台の修道院でゆっくり休みます。カナダへたつ頃は、前のように大食らいに戻っていますよ」
「だったらいいのですが」
「仕事はうまくいっていますか」
「まあまあといったところです」
「よろしい」
ルロイ修道士は右の親指を立てた。
「仕事がうまくいかないときは、この言葉を思い出してください。
『困難は分割せよ』あせってはなりません。問題を細かく割って、1つ1つ地道に片づけていくのです。ルロイのこの言葉を忘れないでください」
冗談じゃないぞ、と思った。
これでは遺言を聞くために会ったようなものではないか。
そういえば、さっきの握手もなんだか変だった。
病人の手
師の握力は万力よりも強いと言われていたのです。
それが実に穏やかな握手にかわっていました。
まさにお別れの儀式そのものだったのです。
彼の左の人さし指は不思議な恰好をしていたのです。
戦時中、丹沢の山の中で荒れ地の開墾をさせられました。
日曜日だけは安息日にしたいと監督官に告げたところ、見せしめに人差し指を木づちで思い切り叩かれたのです。
それでも修道士は後にそのことを何もいわず、ひたすら敗戦国の子供のために泥だらけになって野菜を作り続けました。
その姿を井上少年は目に焼き付けています。
アメリカのサーカスに売りつけるんだなどという噂もたちました。
しかし彼は黙々と働き続け、野菜が子供たちの口に入る様子を嬉しそうに眺めているだけでした。
師はいつもこう言っていたのです。
「日本人とか、カナダ人とかアメリカ人といったようなものがあると信じてはなりません。1人1人の人間がいる。それだけのことですから」
ここまで優しくされてはもう何も言えませんね。
井上少年にどれだけのことをその行動で教えたのか。
人は最後まで信用してもいいものだということを学んだに違いないのです。
指言葉
そのたびに師はいろいろな手や指の動きをしました。
右の親指をピンと立てて微笑みます。
両手の人差し指に中指をからめる時は、「幸運を祈る」「しっかりおやり」という意味なのです。
ルロイ修道士の生き方から、読んでいる人は人間の持つ優しさを感じるでしょうね。
それは『ナイン』の中に出てくる詐欺を働いたかつての野球仲間を許すという話にもつながります。
この小説を深く読むための材料は師の指言葉です。
握手をしたり、指が意味をもつシーンが何回も出てきます。
そのたびに内容が少しずつ変化していくのを読み取っていけば、この作品の味わいがふかまるのではないでしょうか。
同じ握手でも最初の出会いの時と、最後の別れの時とでは全く違うものになっています。
その差がどこからくるのかを考えてみてください。
深い意味に気づくはずです。
ルロイ修道士の指言葉を最後にもう1度復習しておきましょう。
右のひとさし指をぴんと立てる → 「こら」「よく聞きなさい」
右の親指をぴんと立てる → 「わかった」「よし」「最高だ」
両手のひとさし指をせわしく交差させ打ちつける → 「おまえは悪い子だ」
右のひとさし指に中指をからめて掲げる → 「幸運を祈る」「しっかりおやり」
これだけ優しい師に、井上少年はかつてぶたれたことがありました。
無断で天使園を抜け出して東京へ行った時のことです。
その時の指信号はどのようなものだったのでしょう。
ルロイ修道士はその後まもなく亡くなります。
わたしたちに会ってまわっていた頃には、すでに身体中が悪い腫瘍の巣になっていたのですと書いています。
そのことを聞いた「わたし」は、知らぬ間に両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけていたのです。
さてどういう意味か、わかりますか。
ご一読を勧めます。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。