【丸山眞男・であることとすること】権利の上に眠ってはダメという書

「すること」の意味

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は難しい評論に挑みます。

高校3年の教材です。

何度も授業でやりました。

難解です。

説明をきちんとすれば理解してくれますが、そうでないともうダメですね。

この題材は彼の評論『日本の思想』(岩波新書 青版、1961年、改版2018年)に掲載されたものです。

かつては高校生なら卒業するまでに岩波新書を100冊は読めと言われてきました。

井上清『日本の歴史』3冊とこの『日本の思想』はその中でも特別の本でしたね。

どんなことがあってもこれだけはと思い、難しくて仕方がないのに背伸びして読みました。

その中の一部分が「であることとすること」なのです。

今までの教師経験では高校3年になってやっと理解できるかどうかというところですね。

表現が難しいというよりは、内容をきちんと把握することができないのです。

昨今のようにほとんど読書をしない人が増えてくると、岩波新書はもう自分の埒外にある本ということになってしまいます。

新書という言葉を知らない生徒も随分いました。

教室に実物を持っていってこれが新書だといっても知らないのです。

仕方がないので図書室に連れていき、新書の棚から読めそうなのを1冊ずつ借りてくるという荒業をしたこともあります。

岩波新書よりかなりわかりやすく書いてあるジュニア新書でも昨今は苦しくなりつつあります。

近々、論理国語という授業がメインになる背景にはリテラシーの問題もあるのです。

文学国語よりも、まず評論の読解に重点を置かなければという、先生方の焦りが理解できないワケではありません。

さてその時、この教材は残るのでしょうか。

漱石、鴎外が古典になってしまった現代、丸山眞男の評論も完全な古典になりつつあります。

それだけに無理をしても授業で扱って欲しいものです。

全文をここに掲載することはできないので、ほんの1部だけ紹介します。

教科書がある人は、自分で読んでみてください。

本文抜粋

学生時代に末弘厳太郎先生から民法の講義を聞いたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。

金を借りて催促されないのをいいことにして、猫ばばを決め込む不心得者が得をして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。

この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上に眠る者」という言葉が妙に強く印象に残りました。

今考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、単に自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックの中には、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味が潜んでいるように思われます。

(中略)

私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はからっぽになっていないとも限らない。

自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、言い換えれば日々自由になろうとすることによって、初めて自由であり得るということなのです

その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、物事の判断などは人に預けてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々と寄りかかっていたい気性の持ち主などにとっては、甚だもって厄介な代物だと言えましょう。

権利の上に眠るとは

丸山眞男は日本政治思想史の研究者でした。

読んでみてどうですか。

難しいのは承知の上です。

この教材が3年の国語に所収されているというのは、これくらいの文章が読めなくては高校を卒業できないという意味なのです。

ポイントは「権利の上に眠るものは民法の保護に値しない」ということです。

自分にはこれだけの権利があると主張しているだけではダメですよというのが主旨です。

分かりやすく言えば自由とは保障されたり、他人から与えられるだけで達成されるものではないということです。

与えられた自由を休むことなく行使することで、初めて本当の意味での自由を得ることができるのです。

例を1つあげます。

表現の自由についてです。

我々に保障されているとします。

そんなことは当たり前だと思っている人がいるかもしれません。

世界を見て下さい。

けっして当然の権利などではありません。

思っていることをそのまま言葉にできない国も多いのです。

実際に行使できなければ、我々は真に表現の自由を得ていることにはなりません。

それはただの絵に描いた餅なのです。

表現の自由が本当に自分たちのものになるためには、自由な言論が実際に行われなければならないのです。

言うのは簡単ですが、実際にそれがきちんと行われているかどうかは大変に難しいです。

自主規制をしてしまうことも可能です。

しかしそれをしすぎて自分の表現を外にあらわさなければ、それは存在しないのと同じなのです。

アメリカ大統領選挙の場合は

もう少し話を広げてみましょう。

アメリカ大統領選挙が先ごろ行われました。

投票率が高かったです。

自分の意志を示した人がかつてなかったほどに多数であったということはすごいことです。

たとえ選挙権が全ての人にあるといっても、自分で投票所にいくか、郵送で候補者への支持を示すかし
ない限り、全く意味を持ちません。

その人の意志はないのと同じなのです。

geralt / Pixabay

逆にいえば、少しでも油断をしていれば、その権利を奪い取られる危険も同時にあるということになります。

もっと残念なのはわからないからといって全く投票しないことです。

アームチェアに座ってゆっくりとお茶を飲んでいるだけでは、自分の権利を守ることはできないのです。

誰に投票しても同じだということにはならないでしょう。

かつての日本は「である」社会でした。

江戸時代を想像してください。

どの家に生まれるかで身分が決まる構造でした。

しかし現在は自分自身で立つ場所を作り出さなければなりません。

何らかの主張をし、アクションを起こさない限り、誰も面倒をみてくれないのです。

それが民主主義の根本です。

意見があるなら発信しなければならない。

その覚悟がない限り、いつも沈黙するだけの愚かな群衆になってしまいます。

権利があるのなら休むことなくそれを行使する。

もし剥奪されているのなら、真に必要だと伝え、それにふさわしい状況を作らなければなりません。

そんなことができるはずがないと言っているだけでは、何も変わらないのです。

日本は急激に近代化をしました。

しかし残念なことにまだ「する」論理を十分に発揮するだけの環境を整えきれていません。

出身、門地などといった「である」論理がかなり残っています。

二世議員の存在などを考えれば、明らかでしょう。

誰でもがアクションを起こせる社会がくるまで、地道な発信が必要です。

投票1つをとってみても棄権をしてしまえば、それは意志の伝達を怠ったということになります。

それなのに権利だけを強く主張できるのかどうか。

アメリカの大統領選挙をみていると、自分たちがどれほど大変であっても自力で最後まで選ぶという実に時間のかかる、しかしある意味健全な流れがあるように思えます。

「であることとすること」は日本社会の構造について、かなり踏み込んだ評論です。

じっくりと読んで自分なりの考えを持つ契機にしてください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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