狸は愛嬌者
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家でブロガーのすい喬です。
今回は趣向をちょっとかえまして、狸の出てくる落語の話をします。
狐7化け狸は8化けといいまして、狸の方が1つ余計に化けることになってます。
ただし失敗ばかり。
ちょっと抜けたところがまたご愛嬌なんです。
何に化けるのかといえば、代表的なところではお札とサイコロです。
その他、鯉に化けるなんて噺もあります。
しかし寄席でかかるのはもっぱらお札とサイコロと相場が決まってます。
タイトルは「狸札」「狸賽」です。
読めますか。
「たぬさつ」と「たぬさい」です。
狸の噺といえば、亡くなった5代目小さんの右にでる人はいませんでした。
まん丸い顔でいかにも好々爺という感じ。
永谷園のCMで有名でした。
それが狸の真似をすると実にあどけなくて愛らしかったのです。
Youtubeにあります。
是非覗いてみてください。
かわいいですよ。
人のいい八っつあんに危ないところを助けられ、親のところへ逃げ帰ります。
すると命を助けられたらその人のために恩返しをしなくちゃいけないと親に教えられるのです。
なんとかして恩返しをと思うのですが、そこは落語。
失敗の連続です。
その様子が愛くるしくてついクスクスと笑っちゃうというワケです。
化けるは縁起のいい言葉
元々化けるというのは落語の世界では大変に縁起がいいのです。
「化ける」という表現には「お客がたくさん入る」「急に芸が良くなって売れる」というような意味があります。
あいつは最近化けたねと言われると、芸がよくなって人気が出てきたことをいいます。
非常にいい言葉なのです。
前座のうちに大体1席は必ず覚えることになってます。
なるべく愛嬌よくかわいらしくやるのがコツです。
そうして、自分の中にある可愛らしい素朴な部分を見つけるのです。
大人になると、どうしても堅苦しい言葉ばかりを使いがちです。
それを崩すための装置にもなり得ます。
「狸札」とはどんな話なのでしょうか。
あらすじをご紹介しましょう。
昼間、罠にかかっていじめられている子狸を八っつあんが助けたのが発端です。
その日の夜、子狸が礼にやってきます。
親狸から助けられた恩返しをしないのは人間にも劣る狸だと諭されて来たというのです。
お礼をしないと狸の仲間にはじかれるというので、仕方なくその日は土間の隅に寝かせます。
翌日に集金取りがやってきます。
四円五十銭の勘定を取りに来ることになっていました。
なんにでも化けられるというので、八っつあんは1円札5枚に化けてくれと頼みます。
しかし1人1役と決まっていて5枚にはなれないから5円札に化けると言います。
子狸は八っつあんが目をつぶっている間にみごと化けてみせました。
化けてはみたものの、大き過ぎたり、小さ過ぎたり。
裏に毛まで生えています。
さらにノミも這い出してくる始末。
それでもなんとか見事な新品の5円札に化けたのです。
集金取りも首をかしげますが、どうも本物らしいです。
八っつあんは折り曲げたり、畳んだり、回転させちゃ目を回すからダメだなどと妙なことを言います。
無事に勘定を払い、つり銭もいらないと言い出したので相手はびっくり。
子狸のおかげで勘定は払えたものの、ちょっと心配です。
するとそこへ子狸が駆け込んできます。
外へ出た集金取りは、八っつあんがこんな大金を持っているのを不審に思って、にせ札かも知れないと疑ってかかったというのです。
お日様に透かして見たりして、まぶしくてくしゃみが出そうになったとその時の様子を話します。
最後は小さく折りたたんでガマ口に入れたので苦しくて底を食い破って逃げ出して来たのだとか。
八っつあんが褒めてやると、5円札を3枚も出して、ついでにお土産にもってきましたというので、またまたビックリというオチです。
与謝野蕪村の本にも
どうして狸と狐が人を化かすのかはよくわかりません。
落語には狐が化かすという話もあります。
逆に「王子の狐」などという話は人間に騙されるから用心しなきゃダメだという狐まで登場します。
お互いに騙し合いを重ねてきたのでしょうか。
江戸時代に活躍した俳人与謝野蕪村に『新花摘』という俳句の本があります。
その中にも夜中に狸が雨戸をどんどんと叩き人家を訪れるという話があります。
茨城県結城の知人の家にしばらく滞在していた時の話です。
毎晩、狸が雨戸を叩きにやってきます。
気味が悪くなってそのことを話すと騙されてはいけないというので、里人が狸寝入りをして待ちます。
案の定、年老いた狸がやってきました。
それをついに退治してしまうのです。
確かにその夜から音はなくなりました。
しかしなんとなく寂しさが募るのです。
そこでお坊さんを呼び、一夜念仏をして菩提を弔います。
さらに一句を手向けたという次第です。
その時の俳句が「秋のくれ仏に化くる狸かな」というものでした。
ちょっとその部分だけをここに載せましょう。
江戸時代の文章なので、意外にスラスラと読めます。
俳句と狸
雨戸をどしどしどしどしとたたく。約するに二、三十ばかりつらねうつ音す。
いとあやしく胸とどめきけれど、むくと起出て、やをら、戸を開き見るに、目にさへぎるものなし。
又ふしどに入りてねぶらんとするに、はじめのごとくどしどしとたたく。
又起出見るに、もの影だになし。いといとおどろおどろしければ、翁に告げて、「いかがはせん。」など、はかりけるに、かくすること、連夜五日ばかりに及びければ、こころつかれて今は住うべくもあらず覺えけるに、丈羽が家のおとななるもの来たりて云ふ。
「そのもの、今宵はまゐるべからず、此あかつき、籔下といふところにて、里人、狸の老
たるをうち得たり。
おもふに、此ほどあしくおどろかし奉りたるは、うたがふべくもなくそやつが所爲也。こよひは、いをやすくおはせ。」など、かたる。
はたして、その夜より音なくなりけり。
にくしとこそおもへ、此ほど旅のわび寢のさびしきをとひよりたるかれが心のいとあはれに、かりそめならぬちぎりにやなど、うちなげかる。
されば、善空坊といへる道心者をかたらひ、布施とらせつ、ひと夜、念佛して、かれがぼだいを、とぶらひ侍りぬ。
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江戸中期の俳諧の本にも、このように狸は登場していたのです。
なんとなく愛くるしい顔が目に浮かびませんか。
人を化かすなんてことはありもしないはずなのに、そこが想像力のなせる業です。
お札やサイコロに化けて、なんとか恩返しをしようとしても、うまくいかずに失敗をするところがいかにも落語です。
そういうところが噺の魅力なんですね。
前座のうちに覚えておけと師匠がすすめるのも、わかるような気がします。
いつやっても嫌味にならない、本当に明るい噺なのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。