人と救い
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
日本の古典文学を読んでいると、さまざまな問いにつきあたりますね。
仏教的死生観にも大きな渦がいくつもあるのを感じます。
無常観だけでは解決できないテーマなのです。
特に煩悩と救いの問題を考えている作品は何かといえば、やはり『源氏物語』ではないでしょうか。
本来は煩悩が進み、やがてそれが菩提へとして昇華していくというのが、仏教的な救いの道だろうと考えられます。
『源氏物語』では二人の男性に愛され、宇治川に身を投げる浮舟の存在が重いですね。
彼女は横川の聖に助けられた後、尼になります。
愛欲の世界に翻弄された女性だけに、その煩悩は並々のものではなかったはずです。
しかし出家した後、浮舟は人生を静かに見て生きるという道をとりました。
この事実は何を意味しているのでしょうか。
登場人物の配置にも同じことが言えます。
光源氏の罪と報いについての記述も複雑です。
父の妃、藤壺と密通し子を生ませた結果、自分も同じ運命を背負うことになりました。

正妻、女三の宮が柏木との密通によって薫を生むという事実は、宿命的な報いのありかたを垣間見せます。
自分の犯した罪が自分に返ってくるという構図です。
さらに晩年の源氏は斎宮、玉鬘などからも恋を拒絶されます。
嫉妬や憎悪の情念がやがて自らの生霊となって他者を呪い殺すことになる「葵上」などの段を読んでいると、紫式部自身はどこへ向かおうとしていたのかも気になります。
ところで、この段を能に昇華させた世阿弥は、菩提へと通じる世界の姿をどのように見ていたのでしょうか。
煩悩即菩提
人間の欲望や苦しみはそのまま悟りにつながるのかというのは、大変に大きなテーマです。
仏教には「煩悩即菩提」という言葉があります。
世阿弥の能には不幸な人間ばかりが登場します。
夫を失った女や、権力の座からひきずりおろされた武者、煩悩と愛欲の果てに死んでいった人間たち。
みな救いのない執念から逃れられない人ばかりです。
彼らをじっと観察するのが、最初に登場するワキの役割です。
通常は僧侶などが多いですが、それだけではありません。

ワキとは「分ける」人だという説が濃厚です。
彼らはシテである主人公の悩みや苦しみを見出します。
つまりその煩悩の質を腑分けしていくのです。
ある意味、非常に残酷な役割を果たしているといえるかもしれません。
しかし彼らの存在がなければ、シテは自分の執念を見届けることができません。
その苦しみから抜け出すこともできないのです。
煩悩から抜け出すことがそれほどに容易いことではないです。
それだけにワキがいなければ、人の苦しみはどこまでも続くことになります。
哲学者、梅原猛氏の評論に紫式部と世阿弥の人間観、仏教観はどこが違うのかということを詳しく論じたものがありました。
参考にしてみましょう。
本文
煩悩の世界がすべて菩提として肯定されるのか。

紫式部は、煩悩の世界の凝視者であるけれど、必ずしも煩悩の世界の礼讃者ではない。
彼女は愛欲、煩悩の世界にひそむ苦悩を十分よく見ている。
父帝の妃、藤壺とちぎって己の子を生ませた源氏は、己の妃、女三の宮が柏木とちぎって生んだ薫を己の子として育てねばならなかった。
老いのしのびよる晩年の源氏には、斎宮とか玉鬘とか、己の養育した女から婉曲に拒絶されるという恋のうき目にもあう。
紫式部は愛欲の世界をつぶさに観ずることによって、愛欲の世界からのがれようとしたのであろうか。
(中略)
世阿弥においては、紫式部においてのように、煩悩と菩提の調和は直接的に実現できない。
世阿弥の能の主人公は、光源氏のような幸福な人間ではない。
源氏物語から彼がとってくる材料は、六条御息所や浮舟のように、救いのない執念に悩まされる人間ばかりである。
煩悩は直接には地獄の苦悩なのである。
煩悩即菩提などという楽天的な救いはどこにもない。
世阿弥は、むしろこの闇の煩悩の徹底的な乱舞を許すかに見える。
この煩悩のすさまじさの徹底的暴露を通じて、救いに到る道がやっと見出される。
ワキはいつも「幽霊成仏」と祈るのである。
この祈りに応じて恨みの霊は消失するが、ここでは煩悩と菩提の統一は源氏物語での次元より、はるかに媒介的である。(梅原猛「日本文化論」)
愛欲の世界
紫式部は愛欲の世界を美化したのでしょうか。
彼女はむしろ静かに見つめるという立場をとり続けたとも言えます。
冷静に人間の世界を俯瞰しながら、むしろ距離をとろうとしているかのようです。
世阿弥の方が、必死な形相でその世界にのめりこんでいったのかもしれません。
彼の能に登場するのは恨みを抱く霊、執念に苦しむ女、無念の死を遂げた武者などです。
六条御息所や浮舟のような人物も素材になります。
彼らの特徴は救われない執念です。
能では「煩悩」が即「地獄」になります。
源氏物語のように人生の中で調和するのではなく煩悩はまず地獄として現れるというのです。

それでは能の世界の救いはどこにあるのでしょうか。
能では最後にワキが祈ります。
ワキの多くは僧侶の場合が多いですね。
「葵上」でも僧侶が祈りを重ねて生霊を折伏します。
その祈りによって霊は消えて執念が静まっていくのです。
源氏物語の煩悩
『源氏物語』において、煩悩は人生と同じ地平にあります。
しかし能では煩悩が地獄の構図の中にあり、ワキの力に頼らなければ抜け出ることはありません。
それだけ救いにいたる道のりが厳しく遠いともいえるのです。
シテ(主人公)は悩みを語り、己の執念を見せつけなければなりません。
紫式部は、愛欲や煩悩の世界に潜む苦悩を冷静に見つめながら、人間の生の中にその矛盾や報いを描きました。
つまり煩悩は人生の中で経験されるものとして描かれているのです。
一方、世阿弥の能では煩悩はまず地獄の苦悩として現れ、執念に苦しむ霊が僧の祈りによって成仏するという形で救いが示されています。
煩悩と菩提の統一は紫式部よりも間接的に実現されます。

参考までに「葵上」の詞章を最後に載せておきます。
そのリズムを体感してみてください。
地謡 恨めしの心や、あら恨めしの心や。人の恨みの深くして、憂き音に泣かせ給ふとも、生きてこの世にましまさば、水暗き、沢辺の蛍の影よりも、光る君とぞ契らん。
シテ わらはは蓬生の
地謡 もとあらざりし身となりて、葉末の露と消えもせば、それさへことに恨めしや。
夢にだに、返らぬものをわが契り、昔語になりぬれば、なほも思いは真澄鏡、その面影も恥づかしや、枕に立てる破れ車、うち乗せ隠れ行かうよ、うち乗せ隠れ行かうよ。(葵上)
煩悩と菩提への道のりが少し実感できたでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
