栄花物語
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
『栄花物語』は平安時代後期に成立した歴史物語の最初の作品です。
宇多天皇から堀河天皇の15代、約200年間の歴史を編年体で綴っています。
正編30巻の作者は、藤原道長の妻、倫子に仕えた赤染衛門とする説が有力です。
道長の栄華が詠嘆的にとらえられ、王朝の華麗な行事や生活、風俗などが、女性的な細やかな感覚で記録されています。
この文章は大殿(藤原道長)の息子「高松殿の二郎君顕信」が出家した時の記事です。
道長はこの後、病を機に54歳で出家しました。

『栄花物語』はその後の道長を弘法大師、聖徳太子の生まれ変わりと伝え、理想的な仏教者して描いていますが、ここに示されたのはそれ以前のできごとです。
顕信の出家理由は不明ですが、その若さに純粋さを重ねてみるなら、「年ごろの本意」という彼自身の説明も信じられます。
純粋な信仰心も出家も価値あるもので、道長としてはその唐突さに当惑しながら、賞賛せざるを得なかったようです。
しかし道長の『御堂関白記』には「寝食にあらず」と親心からの本音が記されています。
自分の子供を若い時に出家させてしまったという無念が、いつまでも心のしこりになっていたことは、容易に想像できますね。
しかしこの話はそれほど単純な構図ではないようです。
詳細は後で説明しましょう。
比叡山にたどり着いた道長は二郎君と対面し、出家の理由は昇進のことか、失恋か、何がつらいのかなど次々と訊ねます
二郎君は「私にはなんの不満もありません。ただ幼い時分から出家したいと思ってきました。」と事情を説明し、あくまでも本意による出家なのだと述べるだけでした。
本文
かかるほどに、殿の高松殿の二郎君、右馬神にておはしつる、十七八ばかりにやとぞ、いかに思しけるにか、夜中ばかりに、皮の聖のもとにおはして、
「われ法師になしたまへ。年頃の本意なり」とのたまひければ、聖「大殿のいと貴きものにせさせたまふに、必ず勘当はべりなん」
と申して聞かざりければ「いと心ぎたなき聖の心なりけり。殿びんなしとのたまはせんにも、かばかりの身にては苦しうや覚えん。

悪くもありけるかな。ここになさずとも、かばかり思ひ立ちてとまるべきならず。」とのたまはせければ、「ことわりなり」とうち泣きて、なしたてまつりにけり。
聖の衣取り着させたまひて、直衣、指貫、さるべき御衣など、みな聖にぬぎたまはせて、綿の御衣ひとつばかりたてまつりて、山に無動寺といふ所に、夜のうちにおはしにけり。
皮の聖、あやしき法師一人をぞ添へたてまつりける、それを御衣にて登りたまひぬ。
日の出づるほどに、この殿失せたまへりとて、大殿より多くの人を分ちてもとめたてまつらせたまふに、皮の聖のもとにて出家したまへるといふことを聞こしめして、いみじと思しめして、皮の聖を召しに遣わしたるに、かしこまりて、とみにも参らず。
「いとあるまじきことなり。参れ参れ」とたびたび召されて、参りたれば、殿の御前泣く泣く有様問はせたまへば、聖の申ししやう、
「のたまわせしさま、かうかう、いと不便なることを仕まつりて、かしこまり申しはべる」と申せば「などてかともかくも思はん。聖なさずとも、さばかり思ひたちては止まるべきことならず。
いと若き心地に、ここらの中を捨てて、人知れず思ひたちける、あはれなりけることなりや。わが心にも勝りてありけるかな」とて、山へ急ぎ登らせたまふ。
現代語訳
こうしている間に、道長様の夫人の一人、高松殿明子腹の次男顕信君は当時右馬頭でいらっしゃいました。
年は十七、八歳くらいであったとかいうことです。
どのようなお考えだったのでしょうか。
夜中頃に、皮の聖、行円上人のもとへいらっしゃって、「私を僧侶にしてください。長年の宿願なのです」とおっしゃいました。
上人は「あなたのことは父上がたいへん大切なお子だと思っていらっしゃるのだから、勝手に出家などさせたら、きっと私にもたいへんなお叱りがありましょう」
と申しあげ、顕信の願いを聞かなかったところ、顕信君は「叱責を恐れるとは上人とも思われぬ御心です。父上が不都合だとおっしゃったとしても、もはや聖の身なら遠慮もいりません。それを止めるなどとはよくないことです。
私を法師にしないとしても、これほど固く決心したからには止めることはできません」とおっしゃいました。
そこで上人は「それももっともだ」と少し涙をこぼしてから、顕信を法師にし申し上げてしまったのです。

顕信君は上人の着ていた僧衣を借りてお召しになり、ご自分の直衣と指貫とその際着ていた御装束などは、みな上人に脱いでお与えになりました。
ご本人は綿入れ一枚だけお召しになって、比叡山にある無動寺という谷に、夜のうちにいらっしゃったのです。
さらに行円上人は、位の低い僧を一人だけお付け申し上げなさいました。
顕信君はその僧をお供として比叡山にお登りになったのです。
朝日の昇る頃に、二郎君がいなくなられたといって、道長様のご命令でたくさんの人が手分けしてお探し申し上げなさると、皮の聖のもとで出家なさったということを大殿がお聞きになられました。
大変なことだとお思いになって、聖をお呼びになったところ、聖は恐縮していてすぐには参上しません。
「こんなことがあってはならないことだ、はやく参上させよ」と何度もお呼び出しになるので、聖が伺ったところ、道長様は出家のご様子をお聞きになられました。
聖が申し上げるには「二郎君がおっしゃったことは次の通りでございます。大変に不都合なことをいたしました。心よりお詫びいたします。」
と申し上げると、「どうしてとやかくいったりすることがあるだろうか。聖が出家させなさらなくても、そこまで決心していた思いがとどまることはないはずです。
たいそう年若い心で、たくさんの親兄弟を捨てて、ひそかに決心したことは殊勝なことではないですか。私の心よりも数段も勝っていることだ」とおっしゃったそうです。
その後、大殿は比叡山へ急いでお上りになられました。
父の不当な評価
二郎君といわれて、誰のことかわかる人はほとんどいないはずです。
藤原顕信(あきのぶ)は、藤原道長の三男です。
母は源明子(高松殿)。
1012年正月、行願寺(革堂)の行円の許で剃髪し、比叡山の無動寺で出家してしまいました。
理由はいくつか伝えられています。
前年の12月、父の道長は三条天皇から顕信を蔵人頭に任じることを打診されました。
しかし道長はこれを辞退したのです。
その理由は顕信が蔵人頭になれば多くの人から非難を受けるという判断によるものだったといわれています。
顕信は嫡子ではありませんでした。
正室(源倫子)の子である頼通・教通兄弟と、側室(源明子)の子である頼宗・顕信兄弟の間で、道長が昇進に明確な差をつけていたのです。
道長としては、正室の子ではない顕信を優遇する人事を避けたのかもしれません。
あるいは三条天皇の深慮がそこにあったのではないかという見方もあります。
庶子の顕信を出世させ、嫡子と庶子を対立させて自分に有利な状況をつくりたかったとも考えられるからです。
出家直前には顕信が同母兄の頼宗や藤原伊周の長男、道雅らと他人の悪口を言い合っていたという事件がありました。

これが道長の不信感を招いた一因ではないかという説もあります。
あるいはごく自然に仏への帰依の心が人一倍強かったこともあるかもしれません。
行願寺(革堂)の僧である行円の教えに深く感銘を受け、自ら仏道を志したとも伝えられています。
いくつもの事情が絡み合い、顕信は19歳の若さで突然出家し、比叡山で修行に励んだのです。
出家すれば、二度と現世に戻ることはありません。
覚悟の上とはいえ、どのような覚悟を抱いて生きていこうとしたのか。
今となっては不明なことばかりです。
親子の純粋な愛情だけではない、権力闘争の渦があったと見たほうが自然な気もします。
権力者、道長の生き方は複雑そのものでした。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
