讃岐典侍
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は日記文学を扱いましょう。
讃岐典侍(さぬきのないしのすけ)の綴った日記です。
通常は単に「さぬきのすけ」日記と呼ばれています。
1108年頃に成立しました。
1100年、堀河天皇に出仕し典侍となった作者が、1107年、堀河天皇の発病から崩御に至るまでを記したものです。
さらに下巻は幼い鳥羽天皇へ再出仕した時のことを記述しています。
典侍(ないしのすけ)とは内侍司(ないしのつかさ)の女官で、尚侍の次の位にあたります。
通常は「ないしのすけ」、または「すけ」と呼ばれました。
上級の女官のことをさすのです。
この文章は、亡き堀川天皇にかつて仕えていた作者が、白河院(堀河天皇の父で鳥羽天皇の祖父)の仰せにより、新帝・鳥羽天皇(堀川天皇の子、6歳)に仕えるために再び参内した日の翌日、鳥羽天皇と対面する場面を示しています。
文章の前段は、生前の堀川天皇を思い出していた時、無邪気な様子で歌う新帝の声の記述から始まります。
後段は日が暮れて食事を差し上げに参上するところです。
典侍は堀川天皇がまだ在世中に、宮中に参上した時のことがつい昨日のように思われてなりません。
悲しみで胸がいっぱいになってしまったのです。
この段には亡き先帝への深い追慕の情と、新帝の幼い姿に対する感想がありのままに記されています。
味わいの深い日記だと思います。
しかし『讃岐典侍日記』を授業では全く扱うことはありませんでした。
教科書には所収されていなかったのです。
もう少し、じっくりとさまざまな作品に向き合うゆとりが欲しかったですね。
この日記の筆者は藤原長子(ちょうし)です。
讃岐守藤原顕綱の女(むすめ)です。
1079年頃に生まれたことはわかっていますが、没年ははっきりとわかっていません。
顕綱は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母の曾孫にあたる人です。
文学史的にいうと、『更級日記』の作者、菅原孝標(たかすえ)女の伯母にあたる人が『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母です。
讃岐典侍の父は『蜻蛉日記』の作者の子、道綱の孫にあたります。
本文
つとめて起きて見れば、雪いみじく降りたり。
今もうち散る。
御前を見れば、別にたがひたることなき心地して、おはしますらむありさま、
ことごとに思ひなされてゐたるほどに、「降れ降れ、こ雪。」と、いはけなき御けはひにて仰せらるる、聞こゆる。
こは誰そ、誰が子にか、と思ふほどに、まことにさぞかし。
思ふにあさましく、これを主とうち頼み参らせて侯はむずるかと、頼もしげなきぞあはれなる。
昼ははしたなき心地して、暮れてのぼる。
「今宵はよきに、もの参らせそめよ。」と言ひに来たれば、御前の大殿油くららかにしなして、「こち。」とあれば、すべり出てて参らする、昔にたがはず。
御台のいと黒らかなる、御器なくて、土器にてあるぞ、見ならはぬ心地する。
走りおはしまして、顔のもとにさし寄りて、「誰ぞ、こは。」と仰せらるれば、人々「堀川院の御乳母子ぞかし。」と申せば、まこととおぼしたり。
ことのほかに、見参らせしほどよりは、おとなしくならせ給ひにけりと見ゆ。
一昨年のことぞかし、参らせ給ひて、弘徽殿におはしまいしに、この御方に渡らせ給ひしかば、しばしばかりありて、
「今は、さは、帰らせ給ひね。日の暮れぬさきに頭けづらむ。」と、そそのかし参らせ給ひしかば、「今しばし侯はばや。」と仰せられたりしを、
いみじうをかしげに思ひ参らせ給へりしなど、ただ今の心地して、かきくらす心地す。
現代語訳
翌朝、起きて外を見ると、雪がたいそう降っていました。
今も降り乱れています。
帝のいらっしゃるあたりを見ると、堀河帝が生きていらしたころと別に変わったところもないように思えて、
そこに今は鳥羽帝がいらっしゃるという様子が、嘘のように思われ茫然としていると、
「降れ、降れ、こ雪」と、幼い気配でおっしゃる声が、聞こえてきます。
これは誰なの、誰の子なの、と思っていると、まさに鳥羽帝その人でした。
帝が幼いのはわかっていたけれど、それでも驚きの思いで、この人を主君としてお頼み申しあげてお仕えするのかと思うと、頼りになりそうにもないのが、悲しくて仕方がありません。
昼間は明るくて見苦しいような気がしますので、日が暮れてから参上したのです。
「今夜はお日柄もよいので、帝にお食事をさしあげ始めなさい」と言いにいらしたので、帝の御前の灯火を暗くして、
「こちらへ」と言うので、膝行して帝のお部屋に出て見ると、配膳の様子は、昔と変わりません。
ただ、食器を載せる台がたいそう黒いのと、食器が蓋付きの漆器ではなくて、土器であるのが、見慣れない気持ちがしました。
先帝の喪中なので、質素にしておられるのだろうと推察した次第です。
帝が走っていらっしゃって、私の顔のそばに近づいて、「誰、この人は。」とおっしゃるので、まわりの人々が「父上の堀川院の御乳母子ですよ」と言うと、本当だと思っておられるご様子です。
格別に、以前拝見したときよりは、ご成長なさったご様子でした。
あれは一昨年のことでした。
当時東宮であった鳥羽帝が宮中に参内されて、弘徽殿にいらっしゃいましたが、父の堀河帝のおられる清涼殿においでになったところ、
しばらくしてから、堀河帝が「もう、それでは、弘徽殿にお帰りなさい。日の暮れぬうちに髪を櫛でとかしましょう。」と、
おすすめ申し上げたら、東宮は「もう少しこちらにいたい」とおっしゃったのを、父帝はたいそうかわいらしいとお思い申し上げていたことなど、
目に見えるような気持ちがして、涙で目の前が暗くなるような気持ちになったのです。
寵愛の果てに
長子は第73代天皇・堀河帝に仕えていました。
寵愛を受けていたのです。
しかし帝はまだ20代の若さで病に倒れてしまいます。
長子は看病を必死でしました。
ところが29歳で亡くなってしまいます。
里で悲しみにくれているところへ、新しく即位する鳥羽帝に仕えなさいと、白河法皇から院宣が下りました。
鳥羽帝は堀河帝の第一皇子です。
もちろん、長子との間に生まれた子供ではありません。
母親は藤原実季の女(むすめ)の苡子(いし)です。
しかし院からの命令とあらば、拒むことはできません。
彼女は自らの運命を半ば嘆きながら出仕します。
年が明けて6歳の帝に、作者は奉仕します。
邸内のどこを見ても、堀河帝との思い出ばかりが目に浮かびます。
それでも必死で新帝のお世話をする、彼女の心の内側を想像してみてください。
「源氏物語』にも似たようなシーンがありますね。
紫の上は、明石の姫君の世話をして、次の天皇の中宮に育てあげるという構図です。
男女の違いはありますが、つらい定めとしか呼べないような、人の生きざまをあらためて考えてしまいます。
あまり馴染みのない作品ではありますが、ぜひ一読してみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。