栄枯盛衰
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『平家物語』をとりあげましょう。
過去にも記事にしました。
どの部分を読んでも、音の美しさが際立っています。
声に出して読んでください。
元々、琵琶法師が語るのを聞きながら、聴衆は人の世の無常を感じたのです。
誰が書いたのかもわかりません。
長い時間をかけて、今日にまで伝えられてきました。
すばらしい言葉の宝石です。
日本語と漢文が見事に混ざりあっています。
その響きを味わってください。
成立したのは鎌倉時代前期の13世紀中頃と言われています。
平家一門が隆盛した後、没落していくまでの流れが示してあります。
ことに栄華の頂点から檀浦に至る道のりは、哀しく美しいものがあります。
なぜ滅んでいく姿にこれほど、心が動かされるのか。
それも不思議でなりません。
平清盛が亡くなった後の平家は、みごとに滅亡への道をたどっていきます。
武士であった彼らが、いつの間にか貴族になっていったのが理由なのでしょうか。
あるいは人は必ず栄枯盛衰の道をたどらなければならない宿命なのか。
それもはっきりとはわかりません。
一門都落ち
平家の一門は都落ちに際し、池の大納言頼盛は御邸(池殿)に火をかけて出発したが、鳥羽から三百余騎率いて引き返しました。
ひそかに頼朝からの温情を期待していたのです。
頼盛は日ごろ頼朝が好意的だったこともあり、助けてもらえると思いました。
それには理由があります。
平清盛は池の禅尼(宗子)の助言もあって、本来なら死罪にするところ、子供だった源頼朝の命を助けました。
このことから頼朝は、池の禅尼(宗子)を命の恩人としたのです。
そこで、池の禅尼の子である平頼盛に対しても、今後危害を加える事はしないと誓いました。
まさか自分が頼朝に討たれることはないだろうと、頼盛は考えました。
その甘さを新中納言知盛は悔しがったと言われます。
知盛には、都を出てまだ一日も経っていないのに平家の人々の心が微妙に変化していくことへの嘆きもありました。
本当に源氏と戦う意志があるのかどうかを、強く疑ったのでしょう。
決して一枚岩ではなかったのです。
頼盛が一門から離れていったのは、腹違いの兄清盛の死後、大臣殿平宗盛が平家の代表となったことへの違和感もあったと思われます。
平家一門というものの、その内情には複雑な思惑が絡んでいたのです。
さらに、頼盛が頼った八条女院がことのほかすげないことにも、驚かされます。
八条女院が仁和寺の常磐殿にいたので、頼盛はそこに身をかくしたのです。
頼盛は女院の乳母子の宰相殿という女房に連れ添っていたこともありました。
頼盛は女院に「万一のことがあった時には私をお助けください」と告げるものの、女院の返事は案外冷たいものでした。
かつて、高倉宮が平家に反乱を起こした際、宮の長男を女院がかくまっていたことがありました。
それを清盛の要請を受けた平頼盛が引き渡せとを強くせまったことがあったのです。
その時の怒りが、ここで冷たさとなって戻ってきました。
人の心は本当に複雑なものですね。
本文
池の大納言頼盛卿も、池殿に火をかけて出でられけるが、鳥羽の南の門にひかへつつ、「忘れたる事あり」とて、赤じるし切り捨てて、其勢三百余騎都へとつてかへされけり。
平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣(もりつぎ)、大臣殿(おほいとの)の御まへに馳せ参って、「あれ御覧候へ。池殿の御とどまり候に、おほうの侍どものつき参らせて罷(まか)りとどまるが、奇怪におぼえ候。
大納言殿まではおそれも候。
侍どもに矢一つ射かけ候はん」と申しければ、「年来の重恩を忘れて、今此有様を見はてぬ不当人(ふとうじん)をば、さなくともありなん」と宣へば、力およばでとどまりけり。
「扨(さて)小松殿の君達はいかに」と宣へば、「いまだ御一所も見えさせ給ひ候はず」と申す。
其時新中納言涙をはらはらとながいて、「都を出でていまだ一日だにも過ぎざるに、いつしか人の心共のかはりゆくうたてさよ。
まして行くすゑとてもさこそはあらんずらめと思ひしかば、都のうちでいかにもならんと申しつる物を」とて、大臣殿の御かたをうらめしげにこそ見給ひけれ。
抑(そもそも)池殿のとどまり給ふ事をいかにといふに、兵衞佐常は頼盛に情をかけて、「御かたをばまつたくおろかに思ひ参らせ候はず。ただ故池殿のわたらせ給ふとこそ存じ候へ。
八幡大菩薩も御照罰候へ」なんど、度々誓状(せいじやう)をもつて申されける上、平家追討のために討手の使ののぼる度ごとに、「相構へて池殿の侍共にむかつて、弓ひくな」なんど情をかくれば、
「一門の平家は運つき、既に都を落ちぬ。今は兵衛佐にたすけられんずるにこそ」と宣ひて、都へかへられけるとぞきこえし。
八条女院の、仁和寺の常葉殿にわたらせ給ふに、参りこもられけり。
女院の御めのとご、宰相殿と申す女房に、相具し給へるによつてなり。
「自然の事候はば、頼盛かまへてたすけさせ給へ」と申れけれども、女院、「今は世の世にてもあらばこそ」とて、たのもしげもなうぞ仰せける。
凡(およ)そは兵衛佐ばかりこそ芳心は存ぜらるるとも、自余の源氏共はいかがあらんずらむ。
なまじひに一門にははなれ給ひぬ、波にも磯にもつかぬ心地ぞせられける。
現代語訳
池の大納言頼盛卿も、池殿に火を放って出られましたが、鳥羽の南の門に控えながら、「忘れた事がある」といって、赤印(平家軍の旗)を切り捨てて、その軍勢三百余騎で都へ引き返されました。
平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣(もりつぐ)は大臣殿(宗盛)の御前に駆け付けて、「あれを御覧ください。池殿が御留まりなさいますのに、多くの侍どもがついて留まったのが不届きでございます。
大納言まで射るのは畏れ多いことです。侍どもには矢一つ射かけてみましょう」と申したところ、「長年の重恩を忘れて、今この有様を最後まで見届けない不届き者にはそんなことをする必要はなかろう」と言われるので、力及ばず思いとどまりました。
大臣が、「さて小松殿の公達はどうした」と言われると、盛嗣は「まだお一人もお見えになりません」と申しあげます。
その時新中納言(平知盛)は涙をはらはらと流して、「都を出てまだ一日も過ぎないのに、いつのまにか人の心が変わっていく情けなさよ。
まして行く先でもこのようになろうかと思っていたので、都の内でどうにでもなろうと申したものを」といって、大臣殿のほうをいかにも恨めし気に御覧になりました。
そもそも池殿がお留まりになる事はいかがなものかと頭をかしげるのに、兵衛佐(ひょうえのすけ)いつもは頼盛(池殿)に情けをかけて、
「貴方様をまったくおろそかには思ってはおりません。ひたすら故池殿がいらっしゃるのだと思っております。
八幡大菩薩も御照罰下され」などと、たびたび誓状で申された上、平家追討の為に討手の使いがのぼるたびごとに、「間違っても池殿の侍どもに向って、弓をひくな」などと情をかけられていたのです。
「平家一門は運が尽き、既に都を落ちた。今となっては兵衛佐(頼朝)に助けてもらうほかはない」とおっしゃって、都に引き返されたのだという噂だったのです。
八条の女院が、仁和寺の常盤殿におられたので、そこを頼って身を寄せられました。
それは女院の御乳母の宰相殿と申す女房と、懇ろになっていたからなのです。
「もしもの事があったら、頼盛をぜひお助け下さい」と申されたけれども、女院は、「世が世であればともかく、今は」と頼りなくおっしゃるだけでした。
だいたい兵衛佐(頼朝)だけが親切に心がけておられても、その外の源氏はどう思っていたのでしょうか。
頼盛卿は一門と離れてしまわれ、波にも磯にもつかぬ不安な気持ちになられておりました。
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人の心は次々と変化していきます。
都を落ちていくうちに、平家の人の心が散り散りになっていく様子が見事に描かれていますね。
チャンスがあったら、この後の段もぜひ読んでみてください。
「盛者必滅」の哀しみが読み取れるのではないでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。