【知ることの本質】絶対的真実は信仰の領域にしかない【バカの壁】

学び

知ることの本質

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は知ることとは何かという大きなテーマを考えます。

解剖学者、養老孟司氏の『バカの壁』を参考にして考えましょう。

この本が出版されたのは2003年です。

あっという間に400万部を超える大ベストセラーとなりました。

現在も売れ続けています。

現代人の思考の不自由さを軸とし、戦争や犯罪、教育、経済などの諸現象の本質を解明しようとした本です。

刊行当時、よく入試の問題にも取り上げられました。

一時のブームが去った今、あらためて読み返してみると、多くの示唆に満ちていることがよくわかります。

人は理解しあえるのかという根本的な疑問が再び、蘇ってくるのです。

そこで今回は「わかるとは何か」というテーマで、もう1度じっくりと内容を精査してみます。

現在でもこのまま入試小論文にすることは可能です。

特に二項対立の問題として、信仰の問題などを取り上げることも可能でしょう。

さらに「わかっている」という思い込みが、いかに無意味なことかという事実の重みです。

説明さえしてくれればわかるというのは、現代人の傲慢といえないことはありません。

私たちは知ろうと思えば、なんでも知ることができると思っています。

インターネットなどの情報にアクセスすれば、かなりの現実と向き合うことが可能だと信じているのです。

しかしそこまで「ディテール」に迫れるものでしょうか。

わかったつもりでいるという思いが、むしろ事実から認識を遠ざけているのです。

人間はなぜ「神」を作り出したのでしょうか。

日本人に「絶対的真実」は存在しないとはどういうことなのか。

ここであらためて考えていきます。

課題文

もう少し「わかる」ということについて考えを進めていくと、そもそも現実とは何かという問題に突き当たってきます。

「わかっている」べき対象がどういうものなのか、ということです。

ところが、誰一人として現実の詳細についてなんか分かってはいない。

たとえ何かの場に居合わせたとしても分かってはいないし、記憶というものも極めてあやふやだというのは、私じゃなくても思い当たるところでしょう。

世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。

その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍之介の小説『藪の中』や黒澤明監督の『羅生門』のテーマだった。

同じ事件を見た3人が3人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の一つの主題です。

まさに現実は藪の中なのです。(中略)

現実のディテールをわかるというのは、そんなに簡単な話でしょうか。

実際にはそうではありません。

だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。

そこで宗教を作り出してきたわけです。

キリスト教 ユダヤ教 イスラム教といった一神教は、現実というものを極めてあやふやである、という前提のもとで成立したものだと私は思っています。(中略)

ところが 私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。

ここには本質的には真実は何か、事実は何か、と追求する癖がない。

それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。

これは一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との大きな違いです。

私自身は「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています。

なぜなら、突き詰めていけば、そんなことは誰にも確かめられないのですから。

今の日本で一番怖いのは、それが信仰だと知らぬままに、そんなものが存在する、と信じている人が非常に多いことなのです。

小論文の問題

この課題文からどのような問題がつくれるでしょうか。

一緒に考えてみましょう。

いくつかの問いを設定することが可能ですね。

思いついたものを列記します。

①「絶対的真理」「客観的真実」を追求するということの意味を論じなさい。

②筆者が考える「一神教」と「多神教」との違いはどのようなものか、示しなさい

③現代において、そこまでものを知らないということを疑う人が少なくなったと考える理由を自分の体験や経験を通して書きなさい。

小論文を書く時には、限りなく自分の身に引きつけて考えることが大切です。

特に今回のような問題では、結局人間にはわかるということがないという結論を示しています。

そういう意味で③の設問は、さまざまなバリエーションがありそうです。

当然、それに対しての反論もありますね。

いや、そんなことはない。

人間には理解や認識が可能なのだという視点です。

例えばという形で、ここから現在の世界の状況へ切り込んでいくことは可能です。

ロシアのウクライナ侵攻はどうでしょうか。

課題文中にもあるように、1つの事実が幾つもの顔を持っています。

ロシアの立場、ウクライナの立場、NATO同盟の立場、さらに日本の立場。

それぞれの地点にたって考えてみれば、その風景は全く異なったものになるはずです。

それを理解したという言葉で語り切れるのかどうか。

地球温暖化についても同様です。

その恩恵にあずかっている人の存在も現実にはあるのです。

日本との違い

ネットは明らかに社会の形をかえました。

全ての事象を1度は見たような世界に変えたのです。

事実に対する怖れも消えました。

知識を得ようとする熱量も確実に減っています。

知らないことが恥ずかしくなくなったのです。

つまり全てを自分は知りうるという状況にいます。

常識は雑学の1つになってしまいました。

人間はある意味、あやふやで柔らかくて不確かな繭に似た場所で生きているのです。

確かなものがなくても、それほどの不自由は感じていません。

しかし時により完全なものの傍にいたくなります。

たまらなく不安になる時があるからです。

それを救うのが一神教の神です。

この前提の上にたって、正しい答えの存在を仮定しようとすればいいのです。

しかし日本人にはその神にあたるものがないというのが、筆者の論点です。

客観的事実が存在するのかどうかを確かめる方法を持たないのに、今の日本人は楽観的にそれがあると信じているということなのです。

世の中はそんなに簡単ではない、という当たり前のことを何度も繰り返していますね。

芯がないだけに、いくらでも横にぶれていく。

話が少しそれますが、憲法の理解などは典型的です。

特に軍事力については、完全に発効し当時の考えを逸脱しています。

事実が先行し、あとから理屈を付け加える。

絶対的な真実を持てないにも関わらず、それがあると簡単に考えていく日本人的な発想の結晶なのかもしれません。

まさに「八百万の神」といった、多神教の風土に生まれついた民族なのです。

その論点と、自分の経験を重ね合わせれば、かなりユニークな視点の小論文になるのではないでしょうか。

じっくりと考えてみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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