命名の謎
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は枕草子、命名の謎に迫りましょう。
よく考えてみると、奇妙なタイトルですね。
何で「枕」などという表現が頭にのっているのか。
ちょっと気になります。
少しだけ、調べてみました。
『枕草子』は、平安時代中期の随筆です。
一条天皇の中宮定子に仕える女房だった清少納言により執筆されました。
『枕草子』と呼ばれる作品は他にもたくさんあるようです。
草子とはノートブックをさします。
おそらくその時々に感じたことをそのまま、書き留めたものなのでしょうね。
正式には清少納言が書いた枕草子という意味で『清少納言枕草子』と呼ばれています。
これが1番有名で、内容もすぐれているワケです。
完成した年代もはっきりとはわかっていません。
長保3年(1001年)頃にはほぼ完成していたとされています。
『徒然草』『方丈記』と並ぶ日本三大随筆の中の1冊です。
作者、清少納言についてはこのサイトにもいくつかの記事を書きました。
興味のある人はぜひ、読んでみてください。
リンクを貼っておきましょう。
基本は彼女が一条天皇の中宮定子に仕えたところから始まります。
この女性の生き方が、そのまま清少納言のうえに大きな影を残しました。
紙は貴重品
薄倖であった定子をなんかして盛り立てようとした気持ちが、痛いほどに文章から伝わってきます。
さらには、彼女の持つ観察力の鋭さでしょうか。
他の人には気づかない細部を見通す目の確かさが、あちこちに生きています。
特筆すべきは、漢文に通じていたことです。
紫式部と並んで、この時代の女性としては圧倒的な存在でした。
なんといっても学者で歌人の娘ですからね。
ここにとりあげた章段は、清少納言が『枕草子』を書き始めた時のいきさつを語る大切な部分です。
気にとめてほしいキーワードは「枕にこそははべらめ」というセリフです。
何を意味しているのでしょうか。
単純に訳すと「枕でございましょう」となります。
当時、紙は大変な高級品でした。
手すきの和紙です。
それを定子の兄にあたる藤原伊周(これちか)が、帝と妹の中宮定子にくれたのです。
その料紙の一部を中宮が清少納言にプレゼントしたというワケです。
あなたは何に使うのと訊かれたときに出たセリフがこれなのです。
枕にこそははべらめ。
「はべり」というのは丁寧語です。
「ございます」という程度の表現です。
文法的にいうと、強調の「こそ」があるので文末が係り結びの表現になっています。
その紙を重ねて枕にするという発想が最初に浮かんだのでしょうか。
はたして、本当にそれだけだったのか。
少し考察してみたいと考えます。
本文
この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐしもしつべきところどころもあれば、
よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
宮の御前に、内大臣の奉り給へりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には、史記といふ書をなむ書かせ給へる。」
などのたまはせしを、「枕にこそははべらめ。」と申ししかば、「さは、得てよ。」
とて給はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと、尽きせず多かる紙を、書き尽くさむとせしに、いと物覚えぬことぞ多かるや。
おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ選り出でて、歌などをも、木・草・鳥・虫をも、言ひ出したらばこそ、
「思ふほどよりはわろし。心見えなり。」
とそしられめ、ただ心一つに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけたれば、ものに立ちまじり、人並み並みなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「恥づかしき。」
なんどもぞ、見る人はし給ふなれば、いとあやしうぞあるや。
げに、そもことわり、人の憎むをよしと言ひ、ほむるをもあしと言ふ人は、心のほどこそ推し量らるれ。ただ、人に見えけむぞ、ねたき。
左中将、まだ伊勢守と聞こえしとき、里におはしたりしに、端の方なりし畳をさし出でしものは、この草子載りて出でにけり。
惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。
それよりありきそめたるなめり、とぞ本に。
現代語訳
その時々、目に見え心に思ったことを、私が書き留めたのがこの文章です。
それを人は読もうなどとするものでしょうか。
いやするまいと思いながら、退屈な里下がりの間に書き集めてみました。
しかし、あいにく、他の方にとって都合が悪く言い過ぎてしまったこともあるので、うまく隠しておいたと思ったものの、思いがけず、よそに漏れでてしまったのでした。
もともとこの草子は中宮様に、内大臣殿が謙譲なさったものなのですが、定子様は「これに何を書いたらよいかしら。帝は、史記という書物をお書きになられていらっしゃるし。」
などとおっしゃられたので、私は「枕でございましょう。」
と申し上げたところ、中宮様が「それでは、これをそなたにあげよう。」とおっしゃって、私にくださったのです。
しかし私はそのような柄でもないので、あれやこれやと、尽きることのないほど多い紙を文章で書きつくそうとしたので、たいそうわけのわからないことが多いのです。
そもそもこれは、世の中で興味が惹かれること、人がすばらしいなどと思うであろうことを、より選びだしてみました。
歌などや、木・草・鳥・虫のことなどを書いてみたのです。
しかしきっと多くの人に「思うほどはよくない。作者の心が見え透いている。」と非難されることでしょう。
しかしこの草子は、ただ私の心の中だけに、自然と思うことを、たわむれに書きつけたことです。
だから他の本と交じって、いい評判を聞けるなどとは、思ってもみなかったのです。
ところが「素晴らしい」などと、おっしゃる方もいるそうなので、とても不思議なことに思います。
本当に、そういう道理もあるのですね。
人が非難するものを良いと言って、人が褒めるものを良くないと言う人は、その心の程度が推し量られるものです。
ただ、この草子が人に読まれたことが、ちょっと癪にさわるのです。
左中将殿が、まだ伊勢守と申し上げたとき、私の住んでいる所にいらっしゃったのですが、端の方においてあった畳を差し出したところ、この草子が畳にのって人目につくところに出ていました。
あわてて中に入れたのですが、左中将殿はそのままお持ちになって、ずいぶんと長く経ってから返ってきました。
そのときから出回り始めたようです。
執筆動機
この章段を読んで感じるのは、清少納言が自信満々で執筆し始めたことではないということです。
なんとなくというところが本音でしょうか。
もちろん、料紙をもらったからということが大きいですね。
それは藤原道長から紙を提供された紫式部と同じイメージです。
それがなければ『源氏物語』は生まれませんでした。
当時、紙は財力がなければ手に入らない貴重なものだったのです。
現在と同じ感覚で考えてはいけません。
そもそも「枕」とはどういう意味なのでしょうか。
単純に寝具の枕とも考えられますし、歌枕ともとれます。
備忘録や雑記帳の意味で使っていたことも考えられます。
その他にもいくつか説があります。
もう1度読んでみましょう。
「帝はこの紙に『史記』を書写なさいましたが、こちらはどうしますか」と定子に訊かれた清少納言が、「枕にこそははべらめ」と答えたのです。
どんな解釈があるのか。
➀ノートの代わりという意味。
②史記と「しき(敷布団)たへの枕」という言葉遊び。
他には「言の葉の枕」を書く冊子の意味ではないかと解釈した国文学者、折口信夫などの説もあります。
言葉は面白いですね。
どのような解釈も成り立ちます。
何気なく清少納言が言った言葉が、後の時代になって、多くの人に議論されていくのです。
名文の誉れ高い本だけが持つことのできる特権でしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。