木登りの名人と弓の師
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は徒然草の中でもよく知られた段を研究します。
どちらも高校の教科書に載っています。
一言でいえば、慢心の怖さでしょうか。
ちょっとした油断が、人間にはあるものです。
まさか自分がこんなところでと思う気の緩みが、行動に現れるものなのです。
「平常心」という言葉をよく使います。
しかしこの状態をキープすることの、いかに難しいことか。
それをこの2つの挿話は見事に描き出しています。
他山の石としなければなりません。
しかしそれがなかなか実行できないのが、人間なのです。
だからこそ、兼好はあちこちに似たような話を書いているのでしょう。
吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて生きました。
本名は卜部兼好(うらべのかねよし)と言います。
『徒然草』はいつ完成したのか、よくわかっていません。
長年にわたって書いてきた文を1349年頃にまとめたとする説が有力です。
序段を含めて全243段から成ります。
文体は和漢混淆文が主体です。
今回は比較的短い2つの段を重ねて読みましょう。
高名の木登り
高名の木登りと言ひし男、人をおきてて、高き木に登せてこずゑを切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、
「過ちすな。心して降りよ。」とことばをかけ侍りしを、
「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」と申し侍りしかば、
「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ちは、やすきところになりて、必ずつかまつることに候ふ。」と言ふ。
あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。
鞠も、難きところを蹴出だしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。(109段)
現代語訳
名高い木登りという男が、人に指示をして、高い木に登らせて梢を切らせました。
作業場が高くとても危なく見えたときには声をかけることもなく、高い所から降りてくるときに軒の高さぐらいになった時のことです。
「怪我をしないように。気をつけておりなさい。」と初めて声をかけました。
男は「この程度の高さまでになれば、飛び降りても降りることができるはずです。どうしてそのようなことを言うのですか。」と申しました。
木登りの名人は「そのことでございます。誰もが高さでふらふらとめまいがし、枝が細く折れそうで危ないうちは、自分で怖がるものですから、気をつけなさいとは申しません。
失敗や事故は、最も容易なところところになって、必ず起こるものでございます。」と言ったのです。
この名人は身分の低い下人ではあるけれど、言っていることは徳の高い人の戒めとまったく同じです。
蹴鞠も、難しいところを蹴り出したあとで、やさしいところにきた鞠を蹴るときに、必ず落としてしまうと言われているようでございます。
ある人、弓射ることを習ふに
ある人、弓射ることを習ふに、諸矢をたばさみて、的に向かふ。
師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度、ただ、得矢なく、この一矢に定むべしと思へ。」と言ふ。
わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。
懈怠の心、みずから知らずといへども、師、これを知る。
この戒め、万事にわたるべし。
道を学する人、夕には朝あらむことを思ひ、朝には夕あらむことを思ひて、重ねてねんごろに修せむことを期す。
いはむや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らむや。
なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難き。(92段)
現代語訳
ある人が、弓を射ることを習うのに、二本の矢を手にはさんで持って、的に向かいました。
師が言うことには、「初心者は、二本の矢を持ってはいけません。二本目の矢をあてにして、最初の弓をいい加減にする気持ちがあるからです。
毎度、ただ、当たる当たらないと考えるのではなく、この一本の矢で決めようと思いなさい。」と言いました。
たった二本の矢を、しかも師の前で射るのですから、その一本をおろそかにしようと誰が思うでしょうか。
怠けようとする心は、自分ではわかっていなくても、師は、これを知っています。
この戒めは、あらゆることに通じるのではないでしょうか。
仏道を修行する人は、夕方には明日の朝があるだろうと思います。
また朝には夕方があるだろうと思って、あとでもうきちんと修行しようということをあらかじめ計画に入れておくものです。
このような人たちは、まして一瞬のうちに、怠りの心がひそむことを知っているでしょうか。
どうして、現在の一瞬に、すぐに実行することはとても難しいのか。
先入観と慢心
どちらの話もありそうなことばかりです。
木登りの名人の話は耳に痛いですね。
いつもやれている人ほど、つい油断してしまうものです。
ケアレスミスというのは、そんなことをするはずがないというところで起きるのです。
最近、子供の事故が目立ちます。
高いマンションから誤って落ちたり、登園バスに置き去りにしてしまった事故などをみていると、気の緩みとだけで片付けられるものではありません。
絶対にありえないということが起こるのです。
高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えるなどというケースも同様です。
本来なら、そんな幼稚なことはしないと思い込んでいるところに、この種の事故の怖さがあります。
だいたい大きな事故は、ケアレスミスが重なった時におきます。
不注意だと言われてしまえば、それまでです。
しかし人間はそういう生き物だということでしょう。
どんなにAIが発達しても、そのプログラムにバグがあれば、それだけのことです。
高価なスマホにしたところで、充電器がなければ文鎮にしかなりません。
兼好は身分の低い者と侮る民衆の心を存分に描写しました。
身分の低い者が言うことに、耳を貸す人は多くなかったはずです。
人間の性質をよく理解している木登りの名人は、立派な聖人と同じだと言っています。
先入観で人を判断することの怖さが伝わってきますね。
それは弓の稽古にも通じます。
確かに一日は長く、明日もあります。
しかしそんなことを言っているうちに、月日は過ぎていくのです。
光陰矢の如しとはうまい表現です。
ほんのわずかな時間をあまくみるなということでしょう。
そして、次はないといつも自分に言い聞かせる。
やるなら「今」しかないのです。
とはいえ、人間にはそれができない。
チャンスはそうそうあるものではありません。
その瞬間にどれだけの力を発揮できるかが、人の真価を決めるのでしょう。
時間はそんなにないのです。
人の一生はあまりにも短く、野望だけがいつも燃えています。
だから哀しい存在なんでしょうね。
そういう意味で『徒然草』は怖ろしい本です。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。