わかることと知ること
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は令和2年に出題された都立八王子東高校の推薦入試について考えます。
テーマは「わかる」ことと「知る」ことの違いです。
とくにこれから学問を始めようとする人にとって、その意味をきちんと理解し認識することが大切でしょう。
多くの高校や大学の推薦入試の問題にこのテーマが出題されています。
それだけ普遍的な内容なのです。
多くの人は「わかる」と「知る」を曖昧に理解しています。
なかには同じレベルで考えている人もいるでしょう。
しかし全く根本的に違うのです。
それをここではもっと深堀りします。
学問をするということは「知る」ことではありません。
もちろん、何も知らなくていいということではありません。
十分に知ることは基本です。
基礎的な知識なしに学問が成立しないのは明らかですからね。
しかしそれだけで、学問が進むものなのかどうか。
問題はまさにそこから始まります。
わかりやすくいえば、「わかる」は過去の経験やすでに持っている知識に照らし合わせたりすることによって、不明瞭な認識がはっきりした状態に変化することを表します。
一方、「知る」の基本的な意味は、知識のない状態から知識のある状態へと変化させることを意味します。
「知る」は瞬間的な動きである場合もあるでしょう。
その積み重ねがまさによく「知る」という行為なのです。
しかしそれに対して「わかる」は「瞬間」で終わる動作ではありません。
長い道のりの果てにある確かな認識の状態をさします。
課題文
「知る」と「わかる」について、次の文章を読んでみましょう。
課題文を読み、「知る」ことと「わかる」ことの違いについてじっくり考えてみてください。
制限時間内に文章をまとめる練習をしましょう。
入試は時間との戦いです。
以下が課題文の全てです。
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次の文章はノーベル生理学医学賞を受賞した大隅良典氏と生物学者の永田和宏氏の対談の一部です。
内容に触れながら『知る』と『わかる』の違いとはどういうことか。
500字以内で述べなさい。
文章の段落は3段落から4段落とし、主張の説明として具体的な例を示すこと。
大隅
生命科学は自然の観察からはじまりますので、自分の回りにどれくらい自然が豊かにあるのかをまず見てほしいと思います。
ただ、私がこのごろ危惧しているのは、情報がまわりに溢れていることです。
たとえば、何かわからないことがあった時、コンピュータに向かえばインターネット上にいくらでも情報がある。
ウィキペディアの説明を読むと、なんとなくわかった気になってしまうことがあります。
けれども、それで必ずしもわかったわけではない。
大人になるとすぐわかったように振舞ってしまいますが、小さい子どもは「これは何?」「あれはなぜ?」と納得ができるまで疑問を発しますね。
そうやって、人間は成長するものです。
そう考えると、現代人は退化しているのかもしれません。
「知る」と「わかる」は別物です。
素朴に「あれ?」と思うこころを持つと、いろいろなことが実に楽しく見えてくるのではないかと思っています。
永田
確かに最近、疑問を持ってから、それが一体なんなのかを知るまでの時間が極端に短くなっている気がします。
今、おっしゃったように情報の検索手段が発達しているので、疑問を疑問のまま温めている時間が少なくなっているのではないでしょうか。
大隅
私は、すべてのことが「なるほど、こういうことだったんだ」と明らかにわかるまで、わかったとは思えません。
酵母のオートファジーについてですら、今、ようやく3割くらいわかったかなという思いです。
科学をつきつめると、確かに真理に近づいてはいくのですが、1つ解けたらまた次の疑問が湧いてくる。
ある意味ゴールのないことを一生懸命やり続けるのが、人間の科学活動かもしれません。
ですから、小さな問題を解いたらすぐ次の問題にとりかかるのではなく、自分がいつも立ち返ってみることのできる疑問を持つことが研究者にとって大切です。
この問題を解きたいという意志があれば、たとえ多くの困難があっても解けるまではしつこく攻めてみようという気になるでしょう。
(注) オートファジー 大隅氏が世界で初めて解明した、細胞中の一部の成分を膜で囲んで、分解、利用するはたらきのこと。
モチベーションの源泉
これはYesNoに分類するタイプの問題ではありません。
むしろここに示された内容をより深めるタイプの文章です。
ただしこのまま繰り返しても、なんの進展もありません。
どうしたら「知る」というレベルから「わかる」というレベルへ到達できるのか。
それが学習へのモチベーションに繋がっています。
刺さる文章を書くためには必ず自分自身の経験へ戻ることです。
一般論をいくら書いても、採点者には通じません。
具体的な例をあげろと設問にあります。
これを見落としてはいけません。
書かなければ、評価が一気に下がります。
自分の過去の体験の中で、知ったかぶりをした記憶はありませんか。
生兵法はけがの元と言います。
それを短くまとめて書くのも1つの方法です。
制限字数は500字しかありません。
ほんのわずかな部分をキラリと光らせるのです。
それで十分なのです。
長く書いてはNGです。
なんでもネットでみただけで、わかったつもりになっていたことはありませんか。
それでミスしたことはないですか。
とことん「知る」ことを続けていけば、それがやがて「わかる」に変化する瞬間がくるかもしれません。
あるいはそのままで終わってしまった記憶もあるでしょう。
そういう経験が大切なのです。
キーワードを大切に
その違いや自分の中の迷いを、そのままぶつけてもいいです。
それこそ、わかったような顔をして、一般論でまとめてしまうのが、1番もったいないのです。
疑問を疑問のまま、あたためることの意味を存分に考えてください。
これがキーワードです。
手の中で転がしながらあたためる。
対象物や疑問に対する情熱をどのようにしたら持てるのか。
ここにあげられた科学だけがもちろん対象ではありません。
一見、まとめあげるのが難しい歴史においてもそれは同じなのです。
一般的には鎌倉時代とか、江戸時代とか呼んでいますが、その時間のなかで暮らしていた人たちにとって、歴史は日々の暮らしそのものです。
後から学者が時間を切り取って、名前をつけたにすぎません。
むしろ庶民や農民の暮らしは実際どうであったのかを、戸籍1つから、あるいは与えられた田の広さや税の種類、額からみていくだけで、全く違う風景がみえてくるのです。
それが本当に腹の底からわかるということでしょう。
昔からよく言われることですが、「知る」だけでは人間はかわりません。
しかし「わかった」人間は行動が変化するといいます。
他者に対する愛情の表し方1つでも、そこに自ずと違いが生まれます。
これは学問とは全くレベルの違う話です。
よく考えて書いてみましょう。
500字はわずかです。
構成をじっくりと考えてから始めること。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。