鼠説(そせつ)
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は頼山陽(1780~1832)の文章を読みます。
ご存知ですか。
江戸時代後期の儒学者です。
高校ではあまり習わないかもしれません。
彼の著書『日本外史』は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
『鼠説』は頼山陽の文集に載っています。
彼には子供のころから詩文の才能がありました。
18歳で江戸を代表する学校、昌平黌(しょうへいこう)に入り、帰国後21歳の時に脱藩も試みています。
綿密な計画があったのかどうか、それもよくわかっていません。
謹慎中の彼は自分自身の姿を「鼠」になぞらえたのでしょう。
人間がものに執着する心を冷静に見つめようとしています。
哀しみさえ感じさせます。
山陽は生涯に多くの漢詩をつくりました。
川中島の戦いを描いた「鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過(わた)る」の一節を聞いたことがあるのではないでしょうか。
最も有名な詩吟の1つです。
『鼠説』はそれほど長いものではありません。
書き下し文を載せます。
書き下し文
僮(どう)日はく、「臣に策有りと。」
すなわち機(き)を室偶(しつぐう)に設(もう)く。
方量を側立し、これを盆に棲(の)せ、糠(ぬか)を量(ます)に惜(お)く。
警(いまし)めて曰はく「喧(かまびくしすること)なかれ。
今夜三鼓、必ずこれを禽(とりこ)にせんと。
曰はく「諾と」。
皆寝(い)ぬ。
我、いつわり瞑(めい)し、燭下(しょくか)に睨(にら)む。
鼠、糠を跡(たず)ねて来たり。
盆を環(めぐ)りて、窺(うかが)い、ようやく盆に入る。
然(しか)れども、敢へてその量(ます)にあるもの食らはず。
其の盆に遺(の)こるものを食らひて去る。
我曰はく「事、去(ゆ)けりと。」
鼠去りて来たること数(しばしば)なり。
堯翅(ぎょうぎょう)して量(ます)を攀(よ)づ。
量(ます)俄然(がぜん)として覆(くつがえ)る。
僮これを聞き、走りて至る。
右に量(ます)を抑へて左に盆をかかげ、これを我が前に陳(つら)ねて曰はく、
「禽(とりこ)を献ぜんと。」
尾を外に曳き、その内、啾啾然(しゅうしゅうぜん)たり。
我曰はく、「此れ苟(いやしく)も足るを知れば、若(なんじ)安(いず)くんぞ功を奏するを得んやと。」
僮哂(わら)いて曰はく
「何ぞ独り鼠のみならんや。夫(そ)れ世を恋ひ、危機を踏みて焉(これ)に陥(おちい)る者、何ぞ独り鼠のみならんやと」
我、黙然として、項(うなづ)きて曰はく「これを縦(はな)てと。」
現代語訳
召使の子供が言いました。
「私に策があります。」
そして部屋の隅に罠を仕掛けました。
片側に四角いマスを立て、盆にもいくらかの量の糠を潜ませたのです。
そしてこう注意をしました。
「うるさくしてはいけません。今夜真夜中に、必ず鼠を捕らえて見せます。」
主人は「分かった」と言いました。
皆は寝ました。
私は眠ったふりをしながら、明かりの下を睨んでいました。
鼠は糠を求めてやってきます。
盆を周囲を廻って様子を伺い、やっと盆に入りました。
しかしマスの中の糠を食べようとはせずに、盆に在る糠だけを食べて去っていったのです。
私は言いました。
「うまくやられてしまった。ところが鼠は何度も去り、またやってきました。高く爪先立ってマスをよじ登ろうとします。
召使の子供は走ってきました。
右手でマスをおさえて左手で盆をかかげて、私の前に並べて言ったのです。
「獲物を差し上げます。」と。
しっぽが外に出て、中でチュウチュウ泣いています。
私は言いました。
この鼠たちがほどほどで足りるということを知っていたら、おまえはどうして鼠をつかまえることができただろうか。
召使の子供が笑って言います。
「それは鼠だけの話でしょうか。そもそも世の中に執着して危険を冒してまで失敗したりするのは人間も同じです。」
私は黙ってうなづいて言いました。
「この鼠たちを放してやれ。」と。
執着の根深さ
召使いの子供は部屋の隅に鼠をとる仕掛けをつくりました。
盆の上に糠を入れた量を壁に傾けて立ちかけます。
鼠が糠を食べようとして升に前足をかけようとしてよじのぼろうとすると、その重みで升がひっくりかえり、鼠の上にかぶさるという仕掛けです。
案の定、鼠はやってきます。
盆の上に残っているものだけを食べました。
そこでやめてやおけばよかったのです。
しかし危険を冒して、何度もくるうちに、とうとう仕掛けにはまり、捕まってしまいます。
ところが子供のセリフがすごいですね。
危険を何度も犯して失敗するのは鼠だけでしょうか。
ここがこの話のポイントです。
1度おいしい話があると、そこで人間はなかなか引き返せません。
もう1度、うまい話に乗ろうとするのです。
詐欺師は紳士の恰好であらわれるといいます。
最初は必ず儲けさせてくれる。
こんなに簡単にうまくいくのだと思わせ、その次からはだんだん深みにはまっていくのです。
気がついた時は、もう元に戻ることはできません。
あらゆる犯罪はこの方法で成り立っています。
鼠だけが罠にひっかかるワケではないのです。
厳しい現実ですね。
最後まで逃げ切ることは不可能です。
それがわかっていても、ものに執着する心からぬけきれないのが人間なのでしょう。
これを別名、「業」(ごう)ともいいます。
哀しい人間の性でしょうか。
酒、女、博打。
全てがあまりにも魅惑に満ちているのです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。