清少納言
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は清少納言を取り上げましょう。
高校の古文ではかなりいろいろな文章を読みます。
中学校でも「春はあけぼの」の段を学びますね。
きっと暗記させられたのではないでしょうか。
最初のフレーズがすぐにでてくるものと思われます。
名文です。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる 雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。
秋は夕暮れ。
冬はつとめて。
日本の四季のみごとさを短い文の中に凝縮しています。
いつも清少納言は紫式部と対比されて登場します。
あなたはどちらの女性が好きですか。
性格的には全く対称的だといってもいいかもしれません。
日本を代表する文学作品が同時代を生きた2人の女性の手になったのですから、ある意味では奇跡かもしれません。
『枕草子』と『源氏物語』かなかったら、古文の世界はきっとつまらないものになっていたでしょうね。
清少納言は当時著名な歌人であった清原元輔(908~990年)の娘です。
『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父を祖父に持ち、兄弟や姉妹にも多くの歌人がいます。
歌人の家に生まれた娘なのです。
当時は漢字を女性が学ぶという習慣はありませんでした。
しかし歌人の家に生まれれば、話は別です。
父からさまざまな薫陶を受けました。
漢文を次々と読み下していったのです。
これが後の彼女をつくりあげる土台となりました。
現代でいえば、子供の頃から英語を学んだと考えればわかりやすいですね。
読み方は「せいしょう・なごん」と発音されることが圧倒的に多いです。
しかし「清」は父の姓、「少納言」は役職名に過ぎません。
本当ならば「せい・しょうなごん」と区切って発音するのが正しいのです。
それにしても女性の地位の低かったことを想像してください。
本名も生没年もわかっていないのです。
今回は『無名草子』にある彼女についての文章を読みます。
この評論は1196年(建久7年)~1202年(建仁2年)頃に書かれた物語評論です。
鎌倉時代に書かれたこの本には「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする伝承が載っています。
しかし今までに事実として実証されてはいないことを、最初に確認しておきましょう。
本文
すべて、あまりになりぬる人の、そのままにて侍る例、ありがたきわざにこそあめれ。
檜垣の子、清少納言は、一条院の位の御時、中関白、世をしらせ給ひける初め、皇太后宮の時めかせ給ふ盛りに候ひ給ひて、人より優なる者とおぼしめされたりけるほどのことどもは、
『枕草子』といふものに、自ら書き表して侍れば、細やかに申すに及ばず。
歌詠みの方こそ、元輔が女にて、さばかりなりけるほどよりは、優れざりけるとかやとおぼゆる。
『後拾遺』などにも、むげに少なう入りて侍るめり。
自らも思ひ知りて、申し請ひて、さようのことには交じり侍らざりけるにや。
さらでは、いといみじかりけるものにこそあめれ。
その『枕草子』こそ、心のほど見えて、いとをかしう侍れ。
さばかりをかしくも、あはれにも、いみじくも、めだたくもあることども、残らず書き記したる中に、宮のめでたく盛りに、時めかせ給ひしことばかりを、
身の毛も立つばかり書き出でて、関白殿失せさせ給ひ、内大臣流され給ひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出でぬほどのいみじき心ばせなりけむ人の、
はかばかしきよすがなどもなかりけるにや。
乳母の子なりける者に具して、遥かなる田舎にまかりて住みけるに、襖などいふもの干しに外に出づとて、「昔の直衣姿こそ忘られね」
と独りごちけるを見侍りければ、あやしの衣着て、つづりといふもの帽子にして侍りけるこそ、いとあはれなれ。
まことに、いかに昔恋しかりけむ。
現代語訳
一般に、あまりにも度が過ぎてしまった人が、そのまま後まで穏やかでいらっしゃる例は、めったにないことのようです。
檜垣の子、清少納言は、一条院のご在位の御代、中関白(藤原道隆)が、世の中を治めていらっしゃった初め、皇太后宮が帝のご寵愛を受けていらっしゃる全盛期にお仕えになっておりました。
他の人より優れている者と思われなさっていた頃のことなどは、『枕草子』というものに、自分で書き表わしておりますので、詳しくは申しあげるに及びません。
歌を詠む方面では、元輔の娘であって、優れた歌人の娘であったにしては、それほどにうまくなかったのかと思われます。
『後拾遺和歌集』などにも、歌は少ない数しか入っていないようです。
自分でも自分の才能のなさはわかっていて、定子さまにお願いして、そういう歌の方面のことには関わらなかったのではないでしょうか。
それが理由で、入集した歌がひどく少なかったものであるようです。
『枕草子』は、彼女の心の様子がわかり、とても趣きがあります。
たいそう風情もあり、じみじみと身にもしみ、すばらしくもあります。
立派な宮廷生活のことなどを、残らず書き記しているのです。
その中に、定子さまが栄華の盛りにあって、帝のご寵愛を受けて栄えていらっしゃったことばかりを、身の毛もよだつほどに書き表わしています。
宮の父親である関白殿(藤原道隆)がお亡くなりになり、兄君の内大臣(藤原伊周)が流罪になられなどした頃の衰退は、全くおくびにも出さないほどのすばらしい心遣いでありました。
彼女には頼もしい縁者などもいなかったのでしょうか。
乳母の子であった者に連れ立って、遠い田舎に下って住んだのです。
襖などというものを干しに外に出て、『昔の直衣姿が忘れられない』と独り言を言ったのをある人が見かけたことがあるとか。
粗末な衣を着て、つづりというものを帽子にしておりましたそうです。
とても気の毒でした。
本当に、どんなに昔が恋しかったことでしょうか。
才ある女性の末路
漢文が読めたということは、清少納言の人生をどう変えたのかを少し考えてみます。
『枕草子』には有名な「香炉峰の雪」の段がありますね。
ある雪の降る日のできごとです。
聡明な定子は、ただ雪見をするのはつまらないと思ったのでしょう。
そこで思いついたのが白居易の漢詩の一句を、女房に投げかけて返答させるというものでした。
清少納言は定子の謎かけに、言葉で応える代わりに御簾を巻き上げて見せたのです。
漢詩を知らなければ、当然その意味はわかりません。
他の女房達は、あっけにとられるままでした。
香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看るという詩の一節を、仕草でしてみせるという機転の良さに、定子は満足の笑みを返したのです。
知っていればすぐにやってしまうのが清少納言です。
紫式部は数字の「一」がどういう字なのかを知らないといってとぼけました。
ここに性格の差がよく出ています。
女の才はかえって不幸を招くという考え方が、日本の中世には色濃く残っていたのです。
明治期に入ってもまだそういう考えがありました。
ひょっとすると、今でもそうかもしれません。
鎌倉時代に書かれた『無名草子』にはその影響が強くあります。
清少納言が「粗末な衣」を着ていたなどいう記述はまさに「弱法師」の世界です。
才能を十分に花開くことがないまま、亡くなっていった哀れな才ある女性の末路という図式が、当時の人々の共通認識であったのでしょう。
当時の人の生き方を知るうえでも、この本の持つ意味は大きな意味を持っています。
中宮定子の周辺については記事をいくつかまとめてあります。
リンクをしておきますので、読んでいただけたら幸いです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。