こころの豊かさ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
現代の生活はストレスと裏腹ですね。
毎日、いろんなことを考えなくちゃいけません。
自分だけで解決できることなら、なんとかなるかもしれないけれど、そんなに単純じゃありません。
いつだって他人との関係が絡み合います。
仕事を頼んだり、頼まれたり。
きちんとお願いした通りなら、いいんです。
ところが頼み方が悪かったのか。
それとも相手の理解力が不足しているのか。
思ったようになかなかなりません。
特にコロナ禍ですから。
思ったように会えませんしね。
コミュニケーションの手段もつい電話かメール、SNSになっちゃいます。
金銭が絡んできたりすると、解決には時間もかかります。
もっといえば、ついクヨクヨする性格もなんとかしたい。
もう同じことを考えるのはよそうと思っているうちは、しっかり考えているのです。
だからますます厄介ですね。
本当に気にならなくなったら、そんなことがあったことも忘れてます。
人間はそういうもんです。
適度なストレスはむしろ必要で、身体にいいという話も聞きます。
確かに少しだけならば、そうも言えるかもしれません。
しかし人間関係に絡むストレスは、そんなに甘いもんじゃありません。
相手にどう話したらいいものか。
それだけでも胃が痛くなります。
心豊かに暮らしていくのは、本当に大変なことなのです。
市場の原理
市場(いちば)を市場(しじょう)と読みかえた時から、心の豊かさが消えたという話を聞いたことがあります。
なるほど市場(いちば)にはたえず人々の喧噪があり、賑わいが絶えません。
埃も汚れも汗もそこにはあり、笑ったり泣いたりと忙しいことでしょう。
それに反して市場(しじょう)はどこかさびしい響きを持っています。
ぐるりとめぐらされたコンピュータを相手に、一刻も手を抜くことはできない戦いが繰り広げられるイメージです。
一瞬にして何億というお金が取引され、その度に勝者と敗者が生まれるのです。
現代はまさにそうした時代なのでしょう。
かつてアフリカを訪ねたことがあります。
その時に一番驚いたのは、とにかく男性があまり働かないということでした。
1日中、木の下に座っておしゃべりをしている人をたくさんみかけました。
それほどに効率のいい仕事がないということもあるのでしょう。
しかしそれだけが理由とも思えませんでした。
一方、女性達はよく働きます。
一般に結婚年齢が低く、一夫多妻型の土壌があるだけに、年をとると、捨てられてしまう人たちも多いのです。
そうした女性達がなんとか自立するためのプログラムもたくさん見ました。
ミシンの技術習得などもその1つです。
何がよくて何が悪いのかという判断を簡単にすることはできません。
貧富の差が激しくて、何を基準に考えたらいいのかよくわからないのです。
満足に学校へ通えない人もたくさんいます。
その日暮らしに近い生活をしている人を多くみかけました。
よく見る風景
話を日本に戻してみるとどうなるのでしょうか。
最近は傾聴ボランティアという仕事があると聞きます。
お年寄りの話にただ耳を傾けるのです。
みなが孤独におちいり、だれとも話をすることのない日々を送る老人も多いようです。
先日は巣鴨のとげぬき地蔵を訪れる高齢者達を、テレビでとりあげていました。
毎週ベンチに座り、そこで知り合った友達と会話をするのだそうです。
おしゃべりにはお金がかかりません。
そして時間がいくらでもつぶれます。
ちゃんとマスクをして、お饅頭やおせんべいを分け合って。
省エネルギー型の社会をつくる素材はおしゃべり以外になさそうです。
きっと自分と似たような境遇の人がすぐにみつかるのでしょう。
人の輪はつきることがありません。
近くには自分の手料理を持ち寄って、歌をうたえる店もありました。
コロナ禍でしばらく営業を自粛していたようですが、最近、また復活したそうです。
これもある意味でおしゃべり優先の形かもしれません。
日本は経済優先の市場(しじょう)社会です。
しかし、ひょっとするとあちこちに市場(いちば)をたてずにはやっていけない閉塞した社会になりつつあるのではないでしょうか。
一日中、話をしてつきないアフリカの男性達の景色が今、日本のあちこちにも出現しているような気がします。
それが進歩なのか、後退なのか。
それすらも判断がつかない日々があらわれました。
病院の待合室などはまさにそうした風景とも言えますね。
特に整形外科などのリハビリなどへ通う高齢者たちを見ていると、他にいくところがないからきているといった風情の人もいます。
老人施設などで囲碁将棋などを楽しんでいる人の姿にも、似たような印象を持ちます。
図書館も今や、高齢者たちのたまり場です。
さすがにこちらは静かですけどね。
おしゃべり
人間はだれかと繋がっていないと苦しいのです。
もちろん、だれでもいいというワケではありません。
しかしこころの通う人とどうでもいいことを喋っていたいのでしょう。
縁側に座り、漬物とお茶で話し込んでいた年寄りの姿もすっかり消えてしまいました。
住宅の構造が、今や縁側を許しません。
外に向かって解放するということが不可能なのです。
イヤな時代になりました。
外敵がどこから侵入してくるかわからないですからね。
カギをかけずに玄関をあけはなしておけるほど、安全な社会ではありません。
つまり全てが市場原理で構成されるようになったのです。
金融の流通や通信が飛躍的に人々の関係を近いものにしました。
しかこころは離れてしまいました。
一見、すぐに連絡がつきそうです。
しかしその実態は遠くになってしまったのです。
現代のストレスは、ほとんどがそこからきていると考えてもいいのではないでしょうか。
効率優先の社会は息苦しいものです。
どうしたらいいのか。
自分から相手の胸に飛び込んで、おしゃべりをするしかありません。
時間がないといえば、それまでです。
電話もある。
メールもある。
しかしそれをもうひとつ飛び越えなくてはダメですね。
会いたい人には顔をあわせて、息遣いを聞きながら、たとえマスクをしていても会えば、確実に何かがかわります。
皮膚感覚が大切なのです。
微妙な表情や間は、やはりラインのビデオでは無理です。
落語家はお中元や、お歳暮の品を持って、師匠の家を必ず訪問するそうです。
けっして宅配便には頼みません。
顔をあわせて、きちんと礼をつくす。
それ以外の方法はないのです。
一見、実にばかげた無駄な行為にもみえます。
しかしそこに本来、人間の持っているコミュニケーションの本質があるのではないでしょうか。
市場(いちば)の論理に戻らないと、結局人はいつまでも寂しい日々を送らなければなりません。
たとえマスクをしていても、顔をみることの意味は想像以上に深いものだと感じます。
今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。