【鏡の中の現代社会・見田宗介】異世界を知り自明な場所から外に出る

学び

鏡の中の現代社会

みなさん、こんにちは。

今回はつい先日亡くなったばかりの社会学者、見田宗介氏の文章を読みます。

学者でありながら、卓抜なエッセイストでもありました。

これほどに柔らかな文章を書ける人は多くありません。

詩情に溢れたいい作品ばかりです。

ぼくが1番最初に読んだのは、学生時代でした。

友人がこれを読もうと言って持ってきたのです。

『人間解放の理論のために』がそれでした。

その時は必死になって読み込んだ記憶があります。

いわゆる勉強会には、大変にふさわしい本だったと思います。

そもそも、人間を解放するための理論を考えようとする姿勢そのものに敬意を抱きました。

真木悠介というペンネームも彼は同時に持っていました。

エッセイには新鮮な視点がたくさんありましたね。

現代社会の構造を探ろうとする態度は一貫しています。

岩波新書には社会学関係のわかりやすい入門書が何冊かあります。

ぜひ一読をお勧めします。

今日の社会の構造を読み取るには格好の入門書だと思います。

さて、高校では彼の『社会学入門』からよくこの文章が所収されます。

いわゆる二項対立のわかりやすい文です。

インド、メキシコ、ブラジルに対するものとして、ヨーロッパ、アメリカが登場します。

つまりシステムが優先するのか、人間の情が優先するのかという視点です。

読んでいると、確かにその通りだと納得させられるポイントばかりです。

全文は長いので、1部だけを載せます。

本文

自分自身を知ろうとする時、人間は鏡の前に立ちます。

全体としておかしくないか、見ようとする時はそうとうに離れたところに立ってみないと全体は見ることができない。

自分の生きている社会を見る時も同じです。

いったんは離れた世界に立ってみる。

外に出てみる。

遠くに出てみる。

そのことによって、ぼくたちは空気のように自明だと思ってきたさまざまなことが、「あたりまえではないもの」として見えてくる。

演劇の好きな人は「異化効果」というブレヒトの言葉を思い出すでしょう。

社会学のキーワードで言うと、「自明性の罠からの解放」ということです。(中略)

インドやメキシコやブラジルに行った日本人は、その国が大嫌いになるか、大好きになるか、どちらかが多い。

ぼく自身は大好きになった方ですが、嫌いになった人の気持ちはよくわかる。

嫌いになることの理由はよく分かる。

しかし、どうして自分が好きになったかということは、よくわからない。

日本に帰って、「どうだった」ときかれて、話すことはほとんど、困ったことや不便なこと、ひどいこととか危なかったことです。

後になって振り返ってみると、「途方に暮れる」というところから、ぼくたちのインドの旅は始まっていた。

もしも、この「途方にくれる」ということがなくて、スケジュール通りに運んでいたら、ヨーロッパやアメリカの旅行と同じ、これも一つの旅行に過ぎなかったと思う。

旅と旅行は違うのです。(中略)

近代社会の基本の構造はビジネスです。

ビジネスとはbusiness、busyness、「忙しさ」ということです。

「忙しさ」の無限連続のシステムとして「近代」のうわさ。

遠い鏡に映された狂気。

ぼくはその中に帰って行くのだ。

小論文に最適

この文章を読んで考えたことを800字以内で書きなさい、という問題は十分に成立します。

課題文としては二項対立がはっきりしていて、どのような立場からでも書ける内容です。

「前近代」というカテゴリーで、インド、メキシコ、ブラジルを捉えることができます。

一方で「近代」の代表はヨーロッパとアメリカです。

その目安になる言葉は次の文章の中に出てきます。

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ヨーロッパの都市の中心には時計がある。

都市の中心の広場には、教会があり市役所があり、そして必ず大時計がある。

ヨーロッパの人たちはいつの頃からか、時計を見上げながら「近代」を育んできた。

(中略)

その核心にある典型例として紹介しているのが、ベンジャミン・フランクリン、アメリカの100ドル紙幣の肖像になっている人物の、「Time is money」時は金なりという生活信条です。

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この文章のキモはまさにここですね。

インドでバスを待った時の話が象徴的です。

午前に1本、午後に1本しか来ないバスを待っている間に、他愛のない話題で盛り上がる楽しさについての言及です。

バスを待つ時間はけっして無駄ではないのです。

お金と時間を交換するという発想がなければ、時間を過ごすことは決して無意味ではありません。

人情の通う豊かなコミュニティの良さがそこには描写されています。

それが魅力にもなっているのです。

だから途方に暮れたことが、後から妙に懐かしく人間臭い。

思い出にのこることはそうしたことばかりというのも頷けます。

自明性から外へ出る

結局人間は自分の知っている社会にいるだけでは、十分な理解ができないのです。

自分の社会を理解するために他の社会を見る必要があります。

それを「鏡」と見田宗介氏は表現しています。

「鏡」を通して自分の社会をもう一度じっくり見直す。

それまで、あたりまえだと思っていたことが、全くそうではなかったと気づかされるのです。

ではどのような地平に進みでればいいのか。

これがまさに小論文のポイントになるでしょうね。

解答の中でもここが1番に重視される部分だと思われます。

結論をいいましょう。

何を書いてもいいのです。

それが論理的に繋がるものであれば、これがいけないということはありません。

近代を突き進めというのもいいし、前近代に戻れというのもありです。

筆者は結論に何を書いたのでしょう。

その部分をみてみましょう。

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この時に大切なことは、異世界を理想化することではなく、「両方を見るということ」。

方法としての異世界を知ることによって、現代社会の「自明性の檻」の外部に出てみるということです。

さまざまな社会を知るということは、さまざまな生き方を知るということでもあります。

「自分にできることはこれだけ」と決めてしまう前に、人間の可能性を知るということ、人間の作る社会の可能性について、想像力の翼を獲得するということです。

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こういう結論のつけ方も1つの方向性として考えられます。

テーマがわかりやすいものであるために、書き方にはさまざまなバリエーションが考えられます。

自分で何度かチャレンジしてみてください。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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