自己同一性
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は自己同一性についての話です。
よく使いますよね。
英語ではアイデンティティです。
自分らしさとか、自分が自分であることの位置づけなどを意味します。
現代では最重要語句といってもいいのではないでしょうか。
この言葉を知らないで、生きていくのは無理です。
全く使わないとしても、この言葉の持つ意味合いを考えたことがないという人はいないはずです。
自分が自分として、ここに生きている意味とでもいったらいいのでしょうか。
アイデンティティを喪失すると、人間はあらゆることに対する関心を失ってしまいます。
生きる気力がなくなるのです。
よく言われることですが、日本人はアイデンティティの確認を自分ではしません。
というより、他者を基準にして行う傾向が強いのです。
自分の外側の人が、自分のことをどう見ているのかということを通じて、自己確認を行うのです。
教材としてよく使われるのが言語社会学者、鈴木孝夫の「相手依存の自己規定」です。
この評論では日本人と欧米人の考え方を対比しながら論理を進めています。
冒頭に具体例として日本人とアメリカ人の自我の構造の違いを述べています。
人間関係において、日本人は自分の心を誰かと共有したがる傾向が強いというのです。
何もかも洗いざらい話しあい、肝胆相照らすというのが真実の友情だと思っている人が多いのです。
しかしアメリカ人は自分の気持ちは自分にしかわからないものだと最初から規定しています。
自我の仕組みが根本的に違うというのが筆者の論点です。
日本人の自我
それでは日本人はどういう考え方をするのでしょうか。
とにかく重大な問題を心にしまって重みに耐えていくことはできないのです。
そういうことに不向きなメンタリティを持つ人が多いようです。
人間関係においてもそうです。
とにかく相手に自分がどう映るのかということをすごく気にします。
きっと同じ民族が長い間、島国で暮らしてきたからでしょう。
農業を基本にして、共同作業をしなければ生き残れませんでした。
相手がどのような考え方をしているかを、お互いに知ろうと努めてきたのです。
わかりやすくいえば、自分のことは相手が決めてくれる社会でした。
「あの人は~だ。」というような言葉が独り歩きし、拡大されて共有されました。
自分だけで、性格をきちんと規定するなどという荒業を得意としなかったのです。
外に全く自分を表現できない人は、むしろ変人と呼ばれ、人の輪の中には入れません。
そのかわり一度その囲いの中に入れば居心地がそれなりによかったのです。
他の土地から流れてきたものは、なかなか母集団に組み入れられることもありませんでした。
無関心を装われたのです。
そうした歴史が長く続きました。
その結果、日本人は他者を基準にして自分の立ち位置や考え方、アイデンティティを決めるという行動にならざるを得なかったのです。
これが密な集団の中で生きていく知恵だったのでしょう。
相手の意見を待ってから自分の意見を決めることが多くなりました。
言葉から考える
テーマをわかりやすくするために、筆者は言葉の問題をとりあげています。
その代表が人称代名詞です。
日本語は自分を呼ぶ時に人称代名詞を使いません。
多くの場合、資格や地位を表す言葉を用いるのです。
これは言われてみるまで、あまり意識していないことです。
それくらい当たり前なのです。
しかしアメリカ人からみると、実に奇妙なシーンです。
①弟を持つ子供に「あなたはお兄ちゃんなんだから我慢しなさい」
②生徒に向かい「先生はそうは思わない」
③子供に向かい「ご飯だから、パパを呼んできて」
ここでの例は実に頻繁によく使われます。
全て他者を基準にした呼び方です。
なぜ名前で呼ぼうとしないのでしょうか。
私の家では名前で呼ぶということがあるかもしれません。
しかし多くはないはずです。
よく買い物へ行くと「お父さん」などと奥様らしい人が夫に声をかけている場面に出会います。
彼らはそれぞれにとってお父さんでもお母さんでもありません。
子供の視点からみた父と母にすぎないのです。
兄が弟や妹に向かって「お兄ちゃんの本に触るな」という言い方はあります。
しかし弟が姉に対して、「弟ちゃんの本」とは言いません。
そういう時は「ぼく」が普通でしょう。
相手に直接に呼びかける時も同じです。
お父さん、お母さん、おじさん、おばさんはOKです。
しかし弟、妹、息子、孫などという呼びかけはありません。
「~先輩」とはいいますが、「~後輩」という言い方はしないのです。
議論が不得意
日本人はいつも他者の立場からものを考える習性を持っています。
その結果、どうなるのでしょう。
真の意味で、対話や議論がなかなか成立しないのです。
基本的に異なる意見を戦わせるということが苦手です。
侃々諤々話し合うものの、それが終われば友人同士で酒を酌み交わすという図式にはなりません。
どうしても「相手に合わせる」とか「相手と同じところを探す」という方向に進んでしまいがちなのです。
理屈ではわかっているのにもそれがなかなかできません。
人間的にしこりが残って、感情的にギクシャクします。
それだけに「多様性」という言葉は錦の御旗ではありますが、日本人には難問です。
微妙な差をそのまま、認めるという文化がなかなか育ちません。
みんな違ってみんないいというスローガンをよく耳にします。
しかし現実はそれほどに簡単ではありません。
自分のアイデンティティをつねに相手に依存していないと不安でいられないのです。
ハブられるという表現があります。
まさにあの状態に陥るワケです。
このテーマで小論文を書く時は、ここに示された内容のいくつかを書けば十分です。
そこから抜け出すための方法については、ご自身で少し考えてみてください。
最近ではいろいろな場面で、個人が自分の特質をカミングアウトするようになってきました。
1つの進歩だと思います。
しかしまだまだ岩盤は厚いといわなれければなりません。
日本語の構造の中にも、その要因があるという非常にユニークな論点です。
ぜひ、研究を進めてみてください。
面白い内容の文章が書けるようになるはずです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。