新スラング
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
最近よく耳にする言葉がありますね。
親ガチャがそれです。
どこへいってもズラッと並んでいるあのガチャポン。
1回、200~400円くらいでしょうか。
もっと高いのもあります。
コインを入れてガチャガチャと回すと、カプセルに入ったオモチャが出てきます。
子供がよくやっています。
プラスチックフリーの世の中で、あのカプセルはその後どうなるのかといつも首をひねっています。
そのガチャガチャがどうして「親」とくっついたのか。
そのあたりが、この表現の新しさでしょうね。
マスコミもすぐ言葉の響きにに飛びつきました。
このゲームの面白さは選べないというところにあります。
全て偶然の結果です。
どんなオモチャが出てくるのか。
そんなことは誰にもわかりません。
運といってもいいでしょう。
そのオモチャにひっかけて、親子の問題にガチャが登場したというワケです。
しばらく前に「毒親」という言葉がはやりましたね。
子どもの人格形成を決定するのは生育環境が全てだという発想から出た表現です。
子育てが満足にできない親の子供に生まれれば、それは不運ということになるのです。
一方、親ガチャという言葉はもう少しアッケラカンとしています。
そこが救いといえば言えるかもしれません。
容姿から性格まで
毒親には子育てがうまくできないというイメージが先行しています。
しかし親ガチャは受け継いだ容姿が良くないなどという場合などにも使います。
ほとんど悪意がないケースが多いような気がします。
親子の関係がそれほどこじれていない時の表現なのです。
親ガチャという言葉なら、それほど相手を傷つけないで済むのでしょうか。
ちなみにガチャポンという販売機にトライしたことがありますか。
ぼくも先日やらされました。
子供が欲しがるようなアイテムがいろいろと入っているのです。
コインを入れてハンドルをねじると中からカプセルが飛び出します。
何が出てくるのか全くわかりません。
スーパーなどへ行くと、ズラリと並んでいますね。
最近はガチャという言葉をもっと広い意味で使うようです。
アタリと呼ばれるわずかなもの以外を、全てガチャと呼ぶこともあるのです。
おそらくそこから「親ガチャ」という言葉が生まれたのに違いありません。
「うちは親ガチャだ」という表現は、つまりごく平凡な家の子に生まれたという意味です。
事実をトレンド風に、やや自嘲気味に使ったというところでしょうか。
人生をあたりかハズレかで決めてしまうという傾向と言ったらいいのかもしれません。
格差社会と呼ばれ、中産階級が急速にその姿を消しつつあります。
学歴や収入格差が親から子へと自然に伝わっていく社会です。
階層社会と呼んだ方がわかりやすいでしょうか。
毒親のもとに生まれ、きちんと子育てをしてもらえなかったというのとは違います。
生まれた時から、経済力や遺伝因子や文化資本などが違うのです。
中学生くらいになれば、他の家との差を冷静に見て取ることができるようになります。
そこから親ガチャという言葉が生まれてきました。
先天性と後天性
毒親はある意味で、親の持つ資質に由来するケースが多いです。
どのように育てるのかは確かにその親がおかれた環境によるケースも多々あるでしょう。
しかし軌道修正をしながら、育児をしていくこともある程度は可能です。
子育てはある意味、後天的な要素がかなり強いのです。
「育ちか生まれか」といわれると、簡単には決めかねます。
しかしどのような環境で育つのかということを冷静に考えると、経済力、文化的環境の要素は非常に大きなものがありますね。
これは理屈ではありません。
実感です。
現代では親の年収によって明らかに子供の学力が違ってきています。
悲しいことですが現実です。
親にある程度の学力があれば、子供の学習状況を全体的に捉えることができます。
どこでつまづいているのかわかれば、それをみてあげることも可能なのです。
そのための時間もあります。
あるいは第三者に頼むだけの経済的なゆとりもあるのです。
要するに「親ガチャ」は自分の人生運しだいという他力本願の本音かもしれません。
日本全体がアタリとハズレの地図の中にいるような気さえします。
コロナによって大都市とそれ以外の地域の格差も明らかになりました。
収入にも大きな開きがあります。
東京都区内の格差がどれほどあるのかという本もよく出版されますね。
棲み分けが進んでしまっているのです。
出身家庭の階層や地域によって最終学歴などに大きな違いがあります。
特に地方から都市部の大学へ入学するにはかなりの資力を必要とします。
立身出世の難しさ
国会議員選挙のたびに感じることは2世、3世の議員が実に多いことです。
一方には生まれながらの恩恵が、もう一方にはハンディキャップがあるのは厳然たる事実なのです。
苦学しての立身出世は過去の話です。
親の階層で、子供の将来が決まっていく現実が目の前に横たわっています。
そのことを実感として感じることが増えました。
問題は高学歴や高所得などを得て「成功」した人がそれを自分自身の努力の結果だと考えがちなところです。
もちろん、そうした事実もあるでしょう。
ところがそればかりではないということは、現実をみていればすぐにわかります。
社会にでる最初のところから、大きく何歩も先を歩くことが許されているのです。
希望格差だけが先行し、その事実を知ることもできない人が大勢いるのです。
文化資産の豊かな家に生まれれば、さまざまなバイパスルートが用意されています。
有用な人物を多数知っていて、紹介もしてもらえるのです。
多くの人が使う「親ガチャなんだ」という発言の根本には、ある種の諦めの匂いもします。
だから不幸なのかと言われれば、必ずしもそうではありません。
その与えられた環境の中で、楽しく暮らせればいいという感覚も同時にあります。
学歴格差社会、ワーキングプア、世襲政治などいう言葉を見ていると、ホンネとタテマエの社会で構成された現代日本の姿が実によく見えます。
ヤングケアラーという言葉も最近はよく耳にしますね。
若い時代に家族の面倒をみなければならず、思うように自分の経歴を積み上げられなかった人のことです。
まさにこれなどは親ガチャの具体的なケースと言えるでしょう。
努力をすれば必ず報われると答えた若者たちが、日本では明らかに減っています。
機会の平等という題目だけはきれいですが、現実は必ずしもそうはなっていません。
有効な処方箋はどこにあるのでしょうか。
考えてみてください。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。