【井上ひさしの芝居】難しいことをやさしく深く伝え続けた真の作家魂

芝居に生きた人

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師のすい喬です。

今回は亡くなって既に11年が経つ、作家井上ひさしについて考えてみましょう。

今ではどれくらいの人がこの作家の小説を読んでいるのでしょうか。

高校でも授業で扱いました。

『ナイン』がそれです。

タイトルからわかる通り、少年野球をモチーフにした小説です。

あらすじはそれほど難しくはありません。

東京五輪大会の年(1964年)から3年間、作者を想像させる私は四ッ谷駅前の新道商店街に

ある畳屋の中村さんの家の2階に間借りしていたのです。

それから20年後のある日、仕事の帰りに立ち寄って話すうち、話題は町内の少年野球団のことになりました。

新道少年野球団は新宿区の少年野球大会で準優勝までいった強豪チームだったのです。

しばらく昔話をしたあと、9人の消息を訊ねました。

中村さんはナインの現在について4番打者で、捕手で、主将の正太郎については口を閉ざします。

それでますます気になって話をしてみると、2年前、不動産会社で働いているという正太

郎が現れて、「建売五軒分の畳を都合してもらいたい」と依頼してきたそうです。

昔の友達から寸借詐欺をして歩いているという噂を聞いてはいたものの、正ちゃんを信じ

てやってという友人の頼みをきいたのです。

しかしやっぱり嘘でした。

去年、正太郎はナインの1人で自動車学校を経営している常雄に泣きつき、事務員に雇っ

てもらったまではよかったものの、金庫から現金400万円を盗みだしてしまいます。

常雄の奥さんまで連れて逃げたのです。

奥さんはその後ぼろぼろになって戻ってきました。

そこへ少年野球の仲間だった息子の英夫がやってきて、畳の仕上がりを父親にみてもらいます。

英夫は、父親がいなくなってからポツリと自分が一人前になれたのは正ちゃんが大きな穴をあけたから
だと述懐するのです。

なんとか挽回しようと必死に仕事を覚えたというのです。

常雄の奥さんもあの問題以降、人がかわったように働くようになりました。

別人のような良妻になったのです。

正ちゃんはワルにみえるかもしれないけど、やっぱりぼくらのキャプテンなんだよ。

決勝戦の時も6回、ベンチに戻ってぐったりしていると、正ちゃんが日陰をつくってくれた。

完投できたのはあいつが毎回日よけの役をしてくれたからなんだ。

仲間たちは誰も正太郎の悪口を言いませんでした。

短い小説ですが、胸にささります。

孤児院の暮らし

井上ひさしといえば必ず使われる有名な言葉があります。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」

これが彼のモットーなのです。

実に味わい深い言葉ですね。

後に劇団こまつ座を主催した頃からこの表現を頻繁に使うようになりました。

半自伝的小説『青葉繁れる』や『モッキンポット師の後始末』を読むと、彼の生い立ちがよくわかります。

1950年、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学したという経歴には複雑な生活の影がみてとれます。

孤児院の神父の推薦で1953年、上智大学文学部ドイツ文学科に入学しました。

代々木上原のラ・サール修道院から大学に通ったのです。

その時世話をやいてくれたのがモッキンポット師こと、ポールリーチ神父でした。

この小説はとても楽しく心温まる作品です。

是非一読をお勧めしたいですね。

浅草フランス座

ドイツ文学になじめなかった彼はやがてフランス文学科に転入します。

しかしそれよりも熱心に勉強したのは台本書きでした。

在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を根城にして台本を書き始めたのです。

ストリップショーの間には必ずコントの出し物がありました。

その台本を専門に書いたのです。

これが後の作家井上ひさしをつくりあげました。

渥美清、谷幹一、関敬六、長門勇、さらにてんぷくトリオのメンバーと知り合ったのもこの劇場でです。

やがてNHKで「ひょっこりひょうたん島」の放送が始まると、井上ひさしの名前は一躍有名になりました。

その間にもてんぷくトリオの専属コント作家として活躍を続けたのです。

さらには小説にものめりこんでいきました。

1972年、『手鎖心中』で直木賞を受賞

江戸時代の戯作者たちの生態をまるで見てきたかのように描き出しました。

劇作家の横顔

はじめて彼の舞台を見たのは、随分と昔のことです。

たしか学生時代でした。

忘れもしません。

劇団テアトル・エコーの「珍訳聖書」でした。

どんでん返しが7、8回も続いて、どれが最後なのか分からない酩酊感覚に、新しい芝居の出現を感じました。

その後、縁あって何度か紀伊国屋ホールでのゲネプロや、ベニサンスタジオの稽古場にもお邪魔しました。

あの頃が一番こまつ座の芝居をたくさん見たと思います。

こまつ座は井上ひさしが自分の戯曲を発表するために作った劇団です。

なかでも面白かったのは初期のものより、むしろ、中期、後期のものでした。

彼の芝居には必ず、劇中歌があります。

それは代表的なテレビ番組「ひょっこりひょうたん島」を見ればすぐに分かることです。

出色は「頭痛肩こり・樋口一葉」でしょうか。

新橋耐子の幽霊は登場のたびに笑いのとれるおいしい役でした。

また、すまけいがいい味を出した「きらめく星座」も反戦を声高に語るのではなく、静かな、しかし骨のある舞台でしたね。

一番最初にベニサンスタジオの稽古場を訪れた時、すまさんが「しみじみ日本・乃木大将

」の乃木役で、なんども同じ童謡をモチーフにした歌の稽古をしていました。

狭いスタジオの中にはプロの厳しさがありました。

関係者だけという気楽さもあって、ごく自然な大人の集団の気配が色濃く漂っていました。

それが新鮮だったのはいうまでもありません。

その時、競演していた山本亘さんが、ぼくの前にすっとスリッパを出してくれたのも、懐かしい記憶です。

その後、座長の井上都さん(当時)とも何度かお話をしました。

また後日、市原悦子さんの稽古、「雪やこんこん」も見せてもらいました。

この舞台もどんでん返しの好きな井上戯曲の味が出ています。

初期の地口、駄洒落などを多用したものには「道元の冒険」「表裏源内蛙合戦」など多数あります。

ぼくは「父と暮らせば」のようなしみじみとした作品に味わいを感じます。

バケツをぐるぐると思い切り回して、防空演習の稽古をしていた河内桃子さんはもう亡くなってしまいました。

井上ひさしの世界は、本当に奥が深いです。

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彼の関心は言葉を中心にあらゆる分野に及んでいます。

直木賞受賞作『手鎖心中』などを読んでいると、その表現力の見事さに舌をまきます。

またエッセイの面白いこと。

なかでも浅草ロック座時代の話題は実に楽しいものです。

さらには米への関心の深さにこの国の食糧の未来までを考えようとする一人の人間の目を感じます。

故郷への「遅筆堂文庫」寄贈など、話題にも事欠きません。

彼の作品の源泉にある他者へのまなざしの深さが井上文学の魅力といってもいいでしょう。

太宰治、宮沢賢治、夏目漱石、樋口一葉、石川啄木など多くの文人の内面に切り込んだ芝居も大変に面白いです。

チャンスがあったら是非ご覧ください。

亡くなって既に11年。

近年、彼の真価がますます明らかになってきました。

コロナ禍が収束すれば、再び井上ひさしの舞台があちこちで上演されると思います。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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