伊周・隆家の左遷
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『枕草子』を扱いましょう。
一条天皇の中宮定子の後宮は殿上人などが集うサロンでした。
清少納言は定子の後宮が発足して4年目に途中から出仕したのです。
それだけに人一倍、神経も使いました。
場の雰囲気を盛り上げるために、渉外係なども務めたのです。
ところが道隆の死後、権力が道長に移ってしまいます。
さらに定子の兄弟、伊周(これちか)、隆家の2人が左遷されるという重大な事件が起こりました。
女性をめぐる勘違いから花山法皇に弓を射かけたのです。
伊周は、藤原為光の娘に思いを寄せていましたが、その屋敷に花山法皇が通っているという噂を耳にしました。

実際には花山法皇は別の女性のところに通っていたのですが、法皇を「少し脅かしてやろう」と2人は企てます。
この騒動で法皇の乗る車が奪われたりし、朝廷の権威が大きく失墜しました。
政敵である藤原道長にとって、これは伊周、隆家兄弟を失脚させる絶好の好機となりました。
一条天皇の厳罰方針のもとで徹底的な処分が下されたのです。
その余波をうけ、定子も宮中を退出し、出家することとなりました。
この時期、清少納言は道長と通じていると噂され、里に籠りがちでした。
本文にある「心から思ひ乱るること」とあるのはその時のことです。
清少納言は日頃から、世の中は腹立たしく苦しいことばかりだけれど、美しい白い紙や上質の筆、みちのく紙などを手に入れると心が慰められると考えていたようです。
美しい高麗縁の畳を見たりした折には、この世も捨てがたいところがあるなどと語っていました。
その記述がある部分を、少し抜き出してみましょう。
本文
御前にて人々とも、また、もの仰せらるるついでなどにも、「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、
ただの紙のいと白うきよげなるに、よき筆、白き色紙、みちのくに紙など得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめりととなむおぼゆる。
また、高麗縁の、筵青うこまやかに厚きが、縁の紋いとあざやかに、黒う白う見えたるをひきひろげて見れば、
なにか、なほこの世は、さらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなんなる」と申せば、
「いみじくはかなきことにもなぐさむるかな。姨捨山の月は、いかなる人の見けるにか」など笑はせ給ふ。
候ふ人も、「いみじうやすき息災の祈りななり」などいふ。
さてのち、ほど経て、心から思ひみだるることありて里にある頃、めでたき紙二十を包みて賜はせたり。
仰せごとには、「とくまゐれ」など宣はせで、「これはきこしめしおきたることのありしかばなむ。わろかめれば、寿命経もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、
いみじうをかし。思ひ忘れたりつることをおぼしおかせ給へりけるは、なほただ人にてだにをかしかべし。まいて、おろかなるべきことにぞあらぬや。
心もみだれて、啓すべきかたもなければ、ただ、

かけまくも かしこき神の しるしには 鶴のよはひと なりぬべきかな
あまりにやと啓せさせ給へ」とて参らせつ。
台盤所の雑仕ぞ、御使には来たる。
青き綾の単などして、まことに、この紙を草子に作りなどもてさわぐに、むつかしきこともまぎるる心地して、をかしと心のうちにおぼゆ。
二日ばかりありて、赤衣着たる男、畳を持て来て、「これ」といふ。
「あれは誰そ。あらはなり」など、ものはしたなくいへば、さし置きて往ぬ。
「いづこよりぞ」と問はすれど、「まかりにけり」とて、とり入れたれば、ことさらに御座といふ畳のさまにて、高麗など、いときよらなり。
心のうちには、さにやあらむなんど思へど、なほおぼつかなさに、人々いだして求むれど、失せにけり。
あやしがりいへど、使のなければいふかひなくて、所違へなどならば、おのづからまたいひに来なむ、宮の辺に案内しに参らまほしけれど、さもあらずは、うたてあべし、
と思へど、なほ誰か、すずろにかかるわざはせむ、仰せごとなめり、といみじうをかし。
現代語訳
御前で女房たちと話しているときや、また中宮様がお話しになる折などに、
「世の中が腹立たしく、つらくて、ほんのしばらくも生きている気がせず、ただどこへでも行って死んでしまいたいと思う時でも、
真っ白で美しい紙や、よい筆、白い色紙、みちのく紙などを手に入れると、この上なく気持ちが慰められて、『まあすばらしい、こうしてもうしばらくは生きていられそうだ』と思われるものです。
また、高麗縁の、青く細やかで厚い畳の縁が、黒や白の模様を鮮やかに見せているものを広げて見ると、『やはりこの世を捨てることなどできないな』と、命までも惜しくなるのです」
と申し上げると、中宮様は、
「本当にあなたはささいなことで慰められるものですね。姨捨山の月などは、いったいどんな人が見たのでしょう」などとお笑いになる。
お仕えしている人々も、「なんとも手軽な長寿祈願ですこと」などと呟く。
その後、しばらくして、自分自身のことで心を悩ませて里に下がっていたころ、中宮様が立派な紙を二十帖も包んで下さった。

お言葉には、「早く参上しなさい」などとあるわけではなく、
「これはちょっと覚えていたことがあったので差し上げるのです。あなたは気分がすぐれないようだから、寿命を延ばすためのお経も書けそうにありませんしね」
とおっしゃったというのです。
そのお言葉がたいそう趣深いものに感じられました。
私が忘れてしまっていたことを覚えていてくださったのは、普通の人であっても感心するばかりです。
それがましてや中宮様なのだから、なおさら並大抵のことではありません。
心も乱れていて、どうお返事申し上げたらよいかわからなかったので、ただ「恐れ多い神のおしるしによって、私も鶴のような長寿を得ることができそうです。」
という歌を、「恐れ入りますが、これを申し上げてください」と言って差し上げました。
使者としてやって来たのは台盤所の下働きの女性です。
青い綾の単衣などを着ていて、その紙で草子を作ろうなどとあれこれ騒いでいるうちに、悩ましい気持ちも紛れるようで、本当にありがたいことだとしみじみ思いました。
二日ほどたってから、赤い衣を着た使者が畳を持って来て、「これを」と言います。
「誰ですか、あの人は。なんだか無作法ですね」などと言うので、その男は畳だけを置いて立ち去りました。
「どこから来たのですか」と尋ねさせたものの、「もう帰ってしまいました」とのこと。
そこでよく見てみると、特別な御座用という立派な畳です。
高麗縁なども実に美しいものでした。
心の中では、「もしやあの時のことではないかしら」と思うものの、確かなことはわかりません。
人々に探させても行方がわからないのです。
不思議がってあれこれ言うものの、使者がいないので確かめようもありません。
もし届け先を間違えたのなら、そのうち誰かが言いに来るに違いないのです。
宮中へ問い合わせに行きたいけれど、そうでなかったらかえって気まずいですし。
そうは思うものの、「いや、誰がわざわざこんなことをするだろう。きっと中宮様のお言葉によるものに違いない」と思うと、たいそう趣深く、ありがたい気持ちになるのでした。
紙の持つ意味
恐れ多い神のお恵みのしるしによって、私は鶴のような長寿を得ることができそうですという表現は、ずいぶんと深いものですね。
清少納言は紙をもらったことを「寿命が延びるほどありがたい贈り物」と表現しています。
この時代に紙というものが、どれほど貴重であったのかということがよくわかります。
平安の世において、紙は和歌や手紙、仏教の経典など、文字を書くための大事な道具として使われていました。
貴族にとっても紙は大変高価なものでした。
全てが手すきでつくられたのです。
特に色や模様が美しい「料紙」と呼ばれる特別な紙は多くの貴人に好まれました。
和歌や恋文などはもちろんのこと、日記や物語などの文学作品にも愛用されました。
サロンなどに出入りするに女房達に贈る大切な品でもあったのです。
紙の質感やデザインにも特別な配慮を加え、教養や美意識を競いました。
当然、権力の象徴でもあったのです。
経典を写す紙よりも、より高い品質のものを揃えました。
特に藤原道長が紫式部に与えた紙の量は膨大なものだったようです。
それがなければ、あの長大な物語は生まれませんでした。
娘、彰子のために道長は家庭教師兼話し相手として雇った紫式部に対しては、並々でない配慮をしたのです。

物語が一巻ずつ出来上がっていくたびに、格別に美しい紙で製本までさせました。
これと同じことが、清少納言の周囲でもあったのでしょう。
彼女の場合は備忘録であり、エッセイだったので、それほどに大量の紙を使ったとは思われません。
しかし美しい紙や畳などをもらって喜んだ時の様子が目に浮かぶようですね。
それだけに若くしてこの世を去った定子がどれほど、清少納言に親近感を持っていたのかがよくわかります。
本当に心温まるいい章段です。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

