感情の動員
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
あなたは「感情の動員」という表現を耳にしたことがありますか。
なんとなく聞いたことがあるという方も多いかもしれません。
「感情の動員」とは、人々が理性的な判断よりも先に強い感情へと導かれることを意味します。
そこから行動までの距離は大変短いのです。
特に恐怖や怒りなどは、短時間で使命感に結晶します。
これは理屈ではありません。
特別に大きな声を必要としないこともよく知られているのです。
うまく作用すると、あっという間に人々は使命感に燃えて武器を手にします。
戦時下においては冷静な批判や疑問を抑える力も持っています。
この方法は、国家の方針に人々を従わせるための特殊な手段として用いられてきました。
いわゆるプロパガンダの効果的な手法です。

いくら論理的に説明しても、人々は普通、動かないものです。
しかし本来、無垢で無力であるはずの子どもが傷ついた情報に触れることで、感情を揺さぶられます。
女性も同様です。
必死に子どもを抱きしめる母親の姿は、彼らを守らなければならないという決意を強めます。
このような構図はある意味非常にわかりやすいのです。
どちらの国に正義があるのかという判断を超えていきます。
「感情の動員」は、戦時において社会を一体化させる強力な方法論といえるかもしれません。
もう少しこの内容について冷静に考えていきましょう。
この方法は人々の思考を狭め、批判的に考える力を弱める危険性をはらんでいます。
その意味で、女性や子供の映像を使ったプロパガンダは、注意深く読み解く必要があると言えるのです。
最近読んだものの中に、ウクライナとロシアの戦争にからめたテキストがありました。
小論文の問題にもなっています。
課題文
今回の戦争で、ウクライナ側が「感情の動員」に成功していることは確かでしょう。
その中では「女性」が巧みに使われ、今回の戦争のイメージを構成する要素となって私たちの「感情」に訴えかけています。
しかしこの戦争当初は、それらのことを危惧する声もありました。
僕はむしろ、それがいつの間にか、かき消えたことを危惧します。
戦争で女性が果たす役割が大きいというのは、今に始まったことではありません。
第2次世界大戦で、米国もナチスも、そして日本も、女性や子どもを使ったプロパガンダの技法を磨きました。
それらの報道自体は「事実」であるかもしれないし、同時に、プロパガンダにもなっていきました。
そこで大きな役割を担うのは、受け手の「感情」です。
翼賛体制を目指した近衛文麿は「内面より参与せしむる」、つまり「心」や「感情」の動員を最大の目標に掲げました。
なるほど、子どもの死を嘆く母親の映像を見た時、それがウクライナなら「かわいそう」と感情が動かされます。

しかしロシア発のニュースであれば、「ロシアのプロパガンダだ」と懐疑するのではないでしょうか。
思い出すのは、1937年の第2次上海事変で撮影された報道写真です。
日本軍から爆撃を受けた上海南駅の線路近くで号泣する赤ん坊の写真は、一方では同情を呼び、一方ではプロパガンダだと懐疑されたのです。
そういう歴史が繰り返されてきました。
第2次世界大戦は「宣伝戦」、プロパガンダの戦いだと当時の報道でもあからさまに語られたように、戦時下の報道というのは、どちらの側から出てくるものもプロパガンダで、それは今も同じです。
そうやって動員された「感情」は、「外国からこういう目にあわされたら困る」に容易に転じます。
「感情」は暗黙のうちに、自分たちを「被害者」に位置付けます。
プロパガンダが錯綜する「戦争」は現在進行形で、情報も乏しく、理性的な判断は難しいのです。
だからこそ、この国のかつての戦争の歴史を検証材料とすることで、最低限、冷静な判断ができます。
私たちが内面の参与をした結果、何が起きたのでしょうか。
あの戦争に重ね合わせることが、今回ほど適切なことはないはずです。(大塚英志)
この課題文には、次のように問いがあります。
文中にある「感情の動員」は、なぜ、またどのように行われるのか、800字以内であなたの意見を述べなさい、というものです。
ウクライナ戦争とプロパガンダ
この文書は、戦争における「感情の動員」という現象とその歴史的な側面について考察しています。
特に、ウクライナ戦争におけるプロパガンダが、いかに「女性」などの要素を用いて受け手の感情に訴えかけているかを指摘しています。
実感のある文章ですね。
ぼく自身、さまざまな情報に対して冷静な判断をしてきたのか。
十分な自信を持てません。
筆者は、感情の動員は第二次世界大戦中、米国やナチス、日本も用いた手法であり、報道が事実であると同時にプロパガンダにもなり得たと論じています。
また、受け手の感情が「被害者」意識を生み出し、安全保障に関する議論に不合理な影響を与えていると懸念を示しています。
結論として、日本の過去の戦争の歴史を検証材料とすることが、現在のプロパガンダが錯綜する状況で冷静な判断を下すために不可欠であると主張しているのです。

なぜ戦争では感情の動員が必要とされ、どのように成功しているのでしょうか
戦争において「感情の動員」が必要とされるのは、主に国民の「内面からの参与」と体制への支持を確立するためです。
ある意味、怖いことですね。
内面からの参与
かつて近衛文麿が翼賛体制を目指した際、最大の目標として掲げたのが、人々を「内面より参与せしむる」ということでした。
つまり「心」や「感情」の動員です。
これにより、国民の主体的な支持と参画を得ることができるのです。
報道自体が「事実」であるとしても、受け手の「感情」が大きな役割を担うことで、その報道が同時にプロパガンダへと変わっていきます。
戦時下の報道は、どちらの側から出てくるものもプロパガンダであると、当時から認識されてきました。
動員された「感情」は、暗黙のうちに自分たちを「被害者」に位置づけます。
その結果、「外国からこういう目にあわされたら困る」という考えに転じていくのです。
これが国家のレベルから個人へ移ったとき、ぼくたちはどうなっていくのか。
人間関係をうまく利用して、誰かをコントロールしたり、影響を与えたりすることも可能になるのです。
例えば、噂を流したり、被害者を社会的ネットワークから孤立させたりという場面が考えられます。

社会的地位を利用して他人を操ったりすることもあり得ます。
よくあるのは、対立の構図に第三者を介入させることです。
そこに分断を作り出し、新たな磁場を作り出すのです。
そして全く別の力学をコントロールする。
人間関係を傷つけたりして、被害者を無防備にします。
その結果、自殺に追いやることも可能なのです。
近年のSNSを利用した事件には、よくこの方法が使われます。
「怖い」と思わせるだけで成功するのです。
感情には冷静な理性が働きません。
だから怖いのです。
受け手がどちらの側の情報に共感するのかによって、同じことが全く別の表情を持ちます。
感情移入するなというのは無理な話です。
それだけに、報道やイメージの操作には万全の心がけを持たなければいけません。
情報が乏しいわけではないのです。
あまりにありすぎるゆえに、その取捨選択が難しくなっています。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
