「徒然草・百日の鯉」兼好法師を支えた美意識はわざとらしさの排除だった

小論文

わざとらしさを嫌う

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

『徒然草』は243段からなら成り立っています。

作者は有名な兼好法師。

成立は鎌倉時代末期の1331年頃と言われています。

王朝文化への憧れ、自然の変化、無常の美などをわかりやすい擬古文で描いています。

たくさんの人にずっと読み継がれてきました。

非常に愉快な話や、しみじみとした心情を描いたものなど、内容が実にバラエティに富んでいます。

今回は珍しい料理に関する話をとりあげてみましょう。

といってもレシピを説明するようなものではありません。

料理人の言動を主題にしながら、兼好自身の美意識を説明したものです。

ここに登場する園の別当入道とは藤原基氏(1212~1282)のこと。

有名な藤原道長の孫にあたる人です。

若くして検非違使別当を歴任し、24歳で世を捨て仏門に入りました。

料理の達人とも呼ばれた当時の有名人だったのです。

北山太政入道殿とは太政大臣・西園寺公相(きんすけ)の長男、西園寺実兼(さねかね)のことです。

兼好法師はわざとらしい行動や言動が、特に嫌いだったようですね。

人にやるのが惜しいような態度をとりながら、それでいて欲しいと言ってもらいたいと思っていたりするさもしい根性。

勝負に負けたからなどといってわざとらしく贈り物をしたりすることなどは、いかにも恩着せがましくて嫌味なものだと感じていたようです。

人間というのは、本来、物事を大袈裟にしたがるものなのかもしれません。

とっさに機転のきくことを言って、その場を乗り切るというのも確かにひとつの方法ではあります。

言葉の意味

『徒然草』の中では、「百日の鯉」の段がそれにあたります。

「百日の鯉」と突然言われても、なんのことかわかりません。

言葉の意味を理解するのが難しいです。

ここでは単純に、100日間、毎日鯉を料理すると考えればいいのではないでしょうか。

主人公の園の別当入道は、料理が大変上手でした。

周囲の人が声をかけるのをためらったていたので、彼は自分から軽い冗談をいえば、きっと頼みやすいに違いないと判断したのでしょう。

しかしそんなことにいちいち気を回すよりも、素直にありのままを語ったほうが、いっそよかったのではないかというのが、兼好の考え方の根本にあったものと思われます。

兼好法師という人は、わざとらしいことが嫌いでした。

無作為で自然な方が価値があると考えていたのです。

他人に御馳走したり、プレゼントをあげるタイミングというのは、なかなかに難しいものです。

自然体で行動することの難しさを知っていただけに、園の別当入道の姑息なわざとらしさが目についたということなのでしょうか。

兼好の美意識の根底には「虚飾」を排除するという考え方が強くあったものと思われます。

本文

園の別当入道は、双なき庖丁者なり。

ある人のもとにて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがと、ためらひけるを、別当入道さる人にて、

「このほど、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。まげて申し受けん」とて、切られたりける、いみじくつきづきしく、興ありて、人ども思へりけると、ある人、北山の太政入道殿に語り申されたりければ、

「かやうのこと、おのれはうるさく覚ゆるなり。

『切りぬべき人なくは、たべ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。

なでふ、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと、人の語り給ひける、いとをかし。

おほかた、振る舞ひて興あるよりも、興なくて安らかなるが、まさりたることなり。

客人の饗応なども、ついでをかしきやうに取りなしたるも、まことによけれども、ただ、そのこととなくて取り出でたる、いとよし。

人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これ奉らん」と言ひたる、まことの志なり。

惜しむよしして乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

現代語訳

園の別当入道は、2人といない料理人でした。

ある人の家で見事な鯉が出てきたので、誰もが皆、別当入道の包丁さばきを見たいと思いました。

ところが軽々しくお願いするのもどうかとためらっていたのです。

別当入道は察しの良い人物なので、「この頃、百日間、神々に対して毎日鯉を調理するという誓いを立てて、切っております。これも修行です。

まさか今日だけ休むというわけにはまいりせん。

是非、その鯉を調理しましょう」と言ってみごとにさばいたそうです。

その様子が場の雰囲気に馴染み、当意即妙だったと、ある人が北山太政入道に話しました。

北山太政入道は、「私にはひどく煩わしい厭味にしか聞こえませんね。

『さばく人がいないなら私が切りましょう』とだけ言えばいいのです。

どうして百日の鯉などと、わけの分からないことを言うのでしょうか」と、おっしゃったので、納得したという話に、私(兼好)もたいそう感心しました。

わざとらしい小細工で人を喜ばせるよりも、何もしない方がずっとよいのです。

口実を作って接待をするのもいいですが、突然ご馳走を出した方が、ずっといい。

プレゼントも、記念日などではなく、ただ「これを差し上げます」と言って渡すが、本物の好意なのです。

もったいぶって、相手を焦らしたり、勝負の景品にしたりするのは本当に興ざめなことです。

百日の鯉という表現

この文章を読んでいて、理解に苦しむのはやはり「百日の鯉」という表現そのものです。

どのように現代語訳すれば、一番理解しやすいのかということが、気になります。

なぜ百日と言ったのか。

その言葉にどのような意味があるのか。

定期テストなどで、この部分を問う時、次のような選択肢をつくることが多いです。

   ア 百日間、鯉を食べることを断つ
   イ 百日間、鯉を食べ続ける
   ウ 百日間、鯉を料理し続ける
   エ 百日間、鯉を育ててりっぱな鯉とする
   オ 百日間、育てたすばらしい鯉を食べてみる

基本は百日間、鯉を切るということを修行の1つとしているという理解ができるかということです。

神に祈りを捧げながら行う所作というように理解することが大切でしょう。

かつては「お百度参り」などという願いのかけ方がよくありました。

神仏に願いを届けるため、神社やお寺に百回参拝するということをさします。

自分自身の心と向き合い、ひたすら祈るのです。

おそらくここでの「百日間の鯉」も似たような意味合いとして、理解するのが妥当でしょう。

料理の腕をあげるために百日間、料理し続けたのです。

鯉は昔から多くの神社に奉納され、地域によっては神の使いと考えられています。

おそらくそのようなイメージを髣髴とさせて登場したのでしょう。

包丁道のなかには手をつかわずに、鯉を切るという流派もあります。

その手さばきを、兼好も見たことがあったのかもしれません。

いずれにしても、彼の美意識の根幹を見たような気になります。

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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