枕草子命名のナゾ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『枕草子』という、随筆のタイトルが決定するまでの事情を探りましょう。
古文の授業の中でも、この作品は大切な教材です。
『方丈記』「徒然草』とあわせて、日本を代表するエッセイですからね。
この3つの作品がなかったら、古典の時間が随分寂しいものになってしまいます。
いずれも日本人の心のありかを探るためには、貴重な本ばかりです。
それにしても、清少納言の鋭い観察眼には舌を巻きます。
女性ならではの細かな視点は、紫式部のそれとは違う別の味わいを持っているのです。
清少納言というのはもちろん、本名ではありません。
彼女は966年ごろ、中流貴族で歌人としても有名だった清原元輔の娘として生まれました。
清原の一字を名前にとったのです。
少納言は官名にすぎません。
清原一族には歌人が多く、学問の誉れ名高い家系でした。
清少納言が他の人と違うのは、漢詩の教養を身につけていたことです。
当時、漢文を学ぶということは、女性にはほとんど許されていませんでした。
父親が特殊な環境にいたということが、清少納言の一生を数奇なものにしたともいえます。
16歳頃、橘則光と結婚し、則長を生みますが、その後離婚をします。
30歳前にその教養を評価され、一条天皇の中宮定子のサロンに仕えることとなりました。
以降、約7年間、定子のそばにいました。
宮中につとめた清少納言は穏やかで美しく、知性的な定子を心から敬愛したようです。
気が合ったというのが本当のところでしょう。
定子はものをよく知っている上に、機転が利く清少納言を、気に入ったのです。
日記的な章段を読んでいると、初めて中宮定子のサロンに出た頃の驚きが新鮮な筆致で描かれています。
今回はなぜこの随筆が『枕草子』と呼ばれたのかということについて、考えてみます。
今でもはっきり結論が出たというワケではありません。
「草子」はノートの意味です。
「枕」は寝るときのものですから、常識的には一日の終わりにつけた備忘録のタイトルと考えるのが普通でしょう。
しかし話はそう単純ではないのです。
本文の中に書名をつけた時のエピソードが出てきます。
本文
この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとする思ひて、つれづれなる里居のほどに、書き集めたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐしもしつべき所々もあれば、よう隠しおきたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
宮の御前に、内の大臣の奉り給へりけるを、
「これに何を書かまし、上の御前には、『史記』といふ文をなむ書かせ給へる。」
などのたまはせしを、
「枕にこそは侍らめ。」と申ししかば、「さは、得てよ。」
とて賜はせたりしを、あやしきを、こよや何やと、つきせず多かる紙を書きつくさむとせしに、いとものおぼえぬことぞ多かるや。
おほかた、これは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、名を選り出でて、歌などをも木・草・鳥・虫をも言ひ出したらばこそ、
「思ふほどよりはわろし、心見えなり。」
とそしられめ、ただ心一つに、おのづから思ふことを、戯れに書きつけたれば、物に立ちまじり、人並々なるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、
「恥づかしき。」なむどもぞ、見る人はし給ふなれば、いとあやしうぞあるや。
げにそも理、人の憎むをよしと言ひ、ほむるをも悪しと言ふ人は、心のほどこそ推しはからるれ。
ただ人に見えけむぞねたき。
左中将、まだ伊勢守と聞こえし時、里におはしたりしに、端の方なりし畳をさし出でしものは、この草子乗りて出でにけり。
惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。
それよりありきそめたるなめり、とぞ本に。
現代語訳
この草子は、私の目に見え心に思うことを、誰も見ようとはしないだろうと思って、何もすることがなく退屈な実家に帰っている間に、書き集めたものなのです。
他人にとっては具合の悪い、言い過ごしもしたにちがいない箇所もありました。
なんとかうまく隠しておいたと思ったのに、世間に出てしまったのです。
中宮定子様に、内大臣様(伊周)が献上なさった草子の紙を、中宮様が私に
「これに何を書いたらいいものか、天皇におかれては、『史記』という書物をお写しになりましたけれど。」
などとおっしゃったので、私が「それならば枕がピッタリでございましょう。」と申しあげたところ、
「それでは、あなたにあげよう。」
とおっしゃってくださったけれども、つまらないことを、あれやこれやと書き尽くそうとしたので、たいそう訳のわからない話が多くなりました。
だいたい、この草子は、世の中のおもしろいこと、人が素晴らしいなどときっと思ったであろうということを選び出して、歌などでも木・草・鳥・虫などをも言い出したものです。
しかし「あまりいいものではありませんね。心の底が見えすいていて。」と非難されるに違いありません。
これはただ自分一人の考えだけで、自然に思うことを、気楽に書きつけたので、他の立派な書物と肩を並べて、世間並みの扱いを受けるようなものでもないと思っていたのです。
ところが「なかなかすぐれている。」などと、読んだ人が批評なさってくれるそうなので、自分でもたいそう不思議で仕方がありません。
人が褒めてくれることにも道理があって、人が不快に思うことをよいと言い、人が褒めることを悪く言う私のようなひねくれた人は、その心の底が読者にわかってしまうものです。
ただこの草子が、他人に見られたことだけはくやしいのです。
左中将様(源経房)が、まだ伊勢守と申しあげた頃、私の実家においでになられた折に、縁側の方にあった薄い敷き茣蓙を差し出したところ、この草子がそこに載っていたのです。
慌ててしまおうとしたものの、間に合いませんでした。
左中将様はそれをそのまま持っていらっしゃり、たいそう長い間してから手元にもどってきました。
それから、この草子は世間に流布し始めたようなのです。
命名の由来
この文章は跋文という種類のものです。
今なら、「おわりに」というタイトルで本の最後に印刷されている体裁のものです。
ある時、中宮定子が白紙の冊子を手に「これに何を書きましょうか。天皇のところでは中国の歴史書の『史記』を写すそうですよ」と清少納言に相談をもちかけたのが発端です。
その時、清少納言は「枕がピッタリです」と答えたとされています。
これは白居易の書いた『白氏文集』にある「書を枕にして眠る」の一節をもじったものと言われているのです。
清少納言はこの紙を使って『枕草子』を書き始めました。
この時の会話を思い出して書名を『枕草子』と名付けたとされています。
しかしこの「枕でしょ」という台詞がちょっとしたくせものなのです。
『史記』と四季をかけて「四季を枕詞のように、最初に取り上げたものを書きましょう」と言ったのではないかというのです。
「春はあけぼの」から始まる章段があるのは、そのためだという説もあります。
そのほかにも、さきほどの忘備録の「枕」と捉えるという説ももちろんあります。
中世の人は「枕」と聞いたら「枕詞」を最初に思い出す、と考えがちです。
『史記』と「四季」の掛詞もユニークで面白いですね。
幾つかの説があるものの、結論はいまだに決着していません。
いずれにしても紙は大変な貴重なものでした。
藤原道長が『源氏物語』を書かせるため、紫式部に好きなだけ高価な紙を贈った話は有名です。
清少納言は定子からもらった紙に何を書いたらいいのか、悩んだこととと思います。
没落していく定子一族のために、文字で彼女の素晴らしさを残そうとしたに違いないのです。
『枕草子』は、中宮定子に対するオマージュに満ちています。
どんな事情があったのか、想像してみるのも楽しいですね。
定子は24歳で亡くなったと言われています。
昔の人は本当に短命でした。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。