時間意識
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は時間意識について考えてみましょう。
哲学の領域に入る問題ですね。
真正面から出題されると、大変な難問です。
つまりあなたが、時間というものをどう捉えているのかという出題です。
たとえば1つの例をあげます。
年をとると、時間の経つのが速く感じられるのはなぜでしょうか。
よくいわれることですね。
考えたことがありますか。
時間に関する感覚として、多くの大人が口にします。
子供の頃は時間が長かったのに、大人になったら1年くらいはあっという間に過ぎ去ってしまうという感想です。
大人も子供も1年が365日であることに変わりはありません。
それなのになぜこうした言い方があるのか。
その解答の1つに、大人の日常にはそれほどの変化がないということを言う人がいます。
それに反して、子供の毎日は刺激に満ちています。
それだけ記憶中枢に刻まれる内容が、濃くて深いのかもしれません。
あるいは6歳児の1年は生涯の6分の1の長さです。
その一方、60歳の人にとっての1年は、生きてきた内のたった60分の1に相当します。
この割合の違いが、時間の感覚を全く違うものにしているという論点もあります。
いずれにしても、時間感覚というのは、近代になって大きな変革を遂げました。
とくに現代は、ITが先頭に立つグローバル社会です。
時間も空間も容赦なく飛び越えていきます。
わずか数秒の差が、大きな金額の差になるというシビアな時代です。
まさに「神なき後の時間」とでも、呼んだ方がいいのかもしれません。
今回はそうした時間感覚についての課題文を読みます。
筆者は哲学者の滝浦静雄氏です。
課題文
われわれは平生、「時がたつ」その仕方について、どのようなイメージをもっているであろうか。
われわれの日常の経験では、ひとを待つときの時間は長く感じられ、何かに夢中になっているときの時間は短く感じられる。
時間の流れ方は、状況によって異なるかに見える。
しかし、幼児ならともかく、多くの成人は、そうした時間の流れ方の違いはいわば主観的な感じ方の違いであって、本当の客観的時間は、主観のそのときどきの状況とは関わりなく、刻々均一に経過しつつあり、その均一さは、時代や場所の違いを越えた絶対的なものだ、と考えていることであろう。
事実、私が何かに夢中になって、時間を短く感じているその間に、「標準時」に合わせた時計が刻々と時を刻み、それを他の人が見て退屈するということもありうるであろう。
それに、どんな自然科学者や歴史学者も、仮に時代の違いによる地球の回転速度の変化について語ることがあるにしても、時間の経過それ自体が時代によってその速さを変えるといった言い方はしないと思われる。
われわれの常識的な捉え方からすれば、時間はやはり、天上か地上かの違いには無関係に、永遠の昔から現在に至るまで全く同一の速さで流れ来たり、永遠の未来に向かって流れつづけていく全宇宙的な普遍の流れなのである。
体内時計の存在
設問はこの文章を読んで考えたことを、あなたの体験をまじえて800字以内で書きなさいというものてす。
ポイントをまずまとめましょう。
課題文を自分の考えと重なるところ、反するところに分けて読むのが、最も効率的な方法です。
この文で筆者は何を言おうとしているのでしょうか。
基本はごくオーソドックスな考えでまとめられています。
特に反論する余地はないようにも思えます。
筆者の主張は、昔から現在に至るまで時間は全く同一の速さで流れているという一点です。
それは未来に向かっても流れつづけていく普遍の流れだということです。
本当の客観的な時間は主観的な感覚とは全く別のものであり、時間の経過システムになんの変化もないのだというのです。
おそらくこの考え方は、現代を生きる人間にとって否定できない科学的な事実でしょう。
ではそこから何が変質したのか。
何をもって革命などという派手な表現を使うのか。
このことを生物の体内時計のメカニズムから、少し考えてみます。
人間も動物の中の一種類に他なりません。
1日24時間のリズムが身体の中に生まれた時から、沁みついています。
よく言われることですが、時計のない遮断された部屋で何日か過ごした実験の結果をきいたことがあるのではないでしょうか。
人間も動物もおおよそ24時間の周期で、寝起きするのです。
なぜでしょうか。
まさにDNAの中に種を保存するための情報がインプットされているからです。
環境に適応して生存のチャンスを増やすのが7、本能の仕組みです。
としての適応能力があるからです。
もっと詳しくいえば、細胞内におけるたんぱく質の働きともいえます。
朝の目覚めとともに増え、夜になると減るという、生命体のリズムそのものなのです。
それと同時に生命体の大きさが時間感覚をかえるという話もあります。
簡単な例でいえば、ゾウとねずみの時間は明らかに違います。
一般的に体重が重くて体が大きな動物ほど長生きをするといわれています。
おそらく1日の長さの感覚が、全く違うのでしょうね。
それが今までの生命体の一般論でした。
現代という時空
大袈裟な話をすれば、時計ができてから、時間感覚が生まれたのです。
それまでは全て神の手に委ねられていました。
朝の目覚めで、祈りをし、夜の暗闇で再び祈ったのです。
ところが時計台がさらに細かな生活を強要することになりました。
時間が神の手から離れたのです。
だれにとって有利であったのか。
もちろん、時間を切り売りする商人たちにです。
さらに政治家の手に渡っていきました。
その後は哲学者たちがこの不自由な時間を使って、人間の生き方の枠組みを捕まえようとしました。
過去、現在、未来の時間が、今ぼくたちの目の前にあります。
ニュートン以後、いつでもどこでも同じ長さで流れるという現在の真理に辿り着きました。
しかしアインシュタインは、相対性理論で、時間はゴム板のようなものだと主張します。
時間と空間を合わせたもの「時空」は、物の重みで曲がってしまうのだといいます。
それでは今、わたしたちの前に広がっている時間とはなんでしょうか。
科学が発達しすぎ、地球があまりにも狭くなりすぎました。
眠っているわずかの間に、情報が地球上を駆け回り、世界の様子があっという間に変化していきます。
その時間の中をどう生きればいいのか。
ネット社会の持つ不条理を生き抜く方法はあるのか。
そこにかつてのような時間感覚は存在可能なのか。
あるいは知らない間に、その外側に押し出されているのかもしれません。
現代は全て宇宙空間からの視点で考えなければ、ならない時代です。
あらゆる観測機器が宇宙に漂い、そこで正確に計られます。
そうした時間感覚を持ちえない人は、全ての営みからすでにはじかれているのかもしれないのです。
あなたなら、このテーマで何を書きますか。
どの視点からでもかまいません。
時間という不可思議なシステムと一度、正対してみてください。
書けなくてもかまいません。
考えてみるだけで、相当な思考の訓練になります。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。