肝試しは怖い
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師でブロガーのすい喬です。
今回は『大鏡』の中でも最も人気のある藤原道長の肝試しの段を解説しましょう。
後に天下をとる道長の若き日のエピソードです。
本当にこういうことがあったんでしょうね。
作り話にしてはあまりにもリアルすぎます。
細かな描写がそこにいなければ書けない筆致で描かれています。
これと「花山院の出家」の段は『大鏡』の中でも別格だと思います。
『大鏡』はいわゆる鏡ものと呼ばれる歴史書の中でも異彩を放っています。
平安時代後期の白河院政期に成立したと言われています。
高校の古典の教科書にも必ず載っています。
覚えていますか。
これから学ぶ人は、是非記憶にとどめておいてほしいです。
後に道長が天下を取っていく中で示す行動の基本がここに表れていると感じます。
一言でいえば豪胆です。
腹が座っているといえばいいのでしょうか。
怖れを知らないということです。
どうしても英雄譚はそうした面を強く描く傾向があります。
信長などの記述にも似た雰囲気がありますね。
しかし中世の人物の中で、これだけ力強く表現された人は他にいないのではないでしょうか。
以前、国立博物館で『御堂関白記』の実物を見たことがあります。
これは道長直筆の日記です。
実に細かな文字でその日の出来事が綴ってありました。
いつかチャンスがあったら、1度は実物に触れてください。
この段に示された道長とは全く別の横顔をみせています。
彼は細心の神経を持ちつつ、豪胆にふるまえる数少ない人物であったような気がします。
大鏡本文
花山院の御時に、五月下つ闇に、五月雨も過ぎて、いとおどろおどろしくかき垂れ雨の降
る夜、帝、さうざうしとや思し召しけむ、殿上に出でさせおはしまして遊びおはしましけ
るに、人々、物語申しなどし給うて、昔恐ろしかりけることどもなどに申しなり給へるに
「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、気色おぼゆ。まして、も
の離れたる所などいかならむ。さあらむ所に、一人往なむや。」
と仰せられけるに、「えまからじ。」とのみ申し給ひけるを、入道殿は、「いづくなりと
も、まかりなむ。」と申し給ひければ、さるところおはします帝にて、
「いと興あることなり。さらば行け。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿
へ行け。」と仰せられければ、よその君達は、便なきことをも奏してけるかなと思ふ。
また、承らせ給へる殿ばらは、御気色変はりて、益なしと思したるに、入道殿は、つゆさ
る御気色もなくて、「私の従者をば具し候はじ。この陣の吉上まれ、滝口まれ、一人を『
昭慶門まで送れ。』と仰せ言賜べ。それより内には一人入り侍らむ。」
と申し給へば、「証なきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱に置かせ給へる小
刀申して立ち給ひぬ。
(中略)
「いかにいかに。」
と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、
「こは何ぞ。」と仰せらるれば、
「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて
候ふなり。」と、つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。
なほ疑はしく思し召されければ、つとめて、「蔵人して、削り屑をつがはしてみよ。」
と仰せ言ありければ、持て行きて押しつけて見たうびけるに、つゆ違はざりけり。
口語訳
花山院がご在位の時に、五月下旬の闇夜に、五月雨も過ぎて、たいそう不気味にざあざあ
と激しく雨が降る夜、帝は、もの寂しいとお思いになったのだろうか、清涼殿の殿上の間
にお出ましになって、管弦の遊びなどなさっていたところ、人々が、世間話を申しあげな
どなさって、昔恐ろしかったことなどを申しあげるようにおなりになったところ「今夜は
ひどく気味の悪い夜のようだ。このように人が多くいてさえ、不気味な感じがする。まし
て、遠く離れた所などはどうであろうか。そんな所に一人で行けるだろうか。」とおっし
ゃったところ、みなは「とても参れないでしょう。」
とばかり申しあげなさったのに、入道殿(道長)は、「どこへなりとも参りましょう。」
と申しあげなさったので、そのようなところのおありになる帝で、「たいそうおもしろい
ことだ。それならば行け。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿へ行け。」
とおっしゃいましたので、他の君達は、(入道殿は)都合の悪いことを申しあげたものだな
と思いました。
また、帝のご命令をお受けになられた(道隆、道兼の)殿たちは、お顔の色も変わって、困
ったことだとお思いになっているのに、入道殿は、少しもそんなご様子もなくて、「私の
従者は連れて参りますまい。この近衛の陣の吉上でも、滝口の武士でも、一人を召して『
昭慶門まで送れ。』とご命令をお下しください。そこから内には一人で入りましょう。」
と申しあげなさると、「一人では大極殿まで行ったかどうか証拠のないことだ。」とおっ
しゃいますので、入道殿は「なるほど。」と言って、帝がお手箱に置いていらっしゃる小
刀をもらい受けてお立ちになりました。
もうお二人も、しぶしぶそれぞれがお出かけになったのです。
(中略)
帝が「どうしたどうした。」
とお尋ねなさると、入道殿はたいそう落ち着いて、御刀に、削り取られたものを取り添え
て差しあげなさったので、「これは何か。」とおっしゃると、「何も持たないで帰って参
りましたならば、証拠がございませんので、高御座の南側の柱の下を削ってきました。」
と、平然と申しあげなさるので、帝はたいそう驚きあきれたこととお思いになる。
他のお二方の殿のお顔の色は、どうしてもやはり直らないで、この(入道)殿がこのように
帰って参られたのを、帝をはじめとして皆は思わず感心して褒めたたえなさったけれど、
(道隆と道兼は)うらやましいのだろうか、それともどういうわけだろうか、ものも言わな
いでお控えになっていらっしゃいました。
帝はそれでも、疑わしくお思いになられたので、翌朝、「蔵人に命じて、削り屑をもとの
所にあてがってみよ。」とご命令があったので、蔵人が持って言って押しつけてご覧にな
ったところ、少しも違わなかったのでございます。
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いかかでしょうか。
実際の文章はもっと長いです。
道隆、道兼が怖れをなして途中から戻ってくるところの描写もありますが、今回はカットしました。
それに比べて道長の肝の座り方は尋常ではありません。
当時の御所の中というのは真っ暗でした。
通常は月の光だけが頼りです。
しかしこの日は5月下旬の闇夜とあります。
雨がものすごく降る真っ暗な夜だったのでしょう。
広い宮中をたった1人で歩き、高御座の南側の柱の下の部分を証拠品として切り取ってもってくるという落ち着きは並々のものではありません。
高御座というのは大極殿の中央にある天皇の御座です。
最も神聖な場所なのです。
ちなみに花山天皇の在位期間は984年~986年です。
道長は968年生まれなので、16歳~18歳くらい。
怖れを知らない年頃です。
ちなみに道隆は32歳くらい。道兼は24歳前後です。
道長の大物ぶりを示す段としていまだに読まれているというのがすごいですね。
影をば踏まで
『大鏡』にはいくつも道長のエピソードが出てきます。
その中でも有名なのが若い日の言葉です。
「影をば踏まで、面をや踏まぬ」
これも有名ですね。
ある時、道長の父兼家が、息子たちの前でこんなことを言いました。
「藤原公任は、どうしてあのように何もかもできるのか。うらやましい。わが子たちが公任の影さえ踏めそうもないのが残念だ」
公任は、道長たちと同年輩です。
道長の兄、道隆と道兼は、父の言葉に納得し、いかにも恥ずかしそうにしていました。
何も言えないのです。
その時、若い道長はこう言いました。
「後を追いかけて影なんか踏むものか、真っ正面から面を踏んづけてやる」
いかにも鼻っ柱の強い、権力者になる若者の素顔そのものを描写しています。
今でも『大鏡』は多くの人に愛されています。
その表現力のすばらしさはやっぱりダントツですね。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。