「徒然草」女性の本性を論じた第107段に見る兼好の思考パターンはこれ

女性の本質

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『徒然草』を読みます。

兼好法師の文章は高校でかなり学びますね。

しかしあまり授業ではとりあげないもののなかにも、すぐれた内容のものがたくさんあります。

随筆文学の傑作といわれる理由はそこにあるのです。

近年、兼好という人についてかなり研究が進められてきました。

しかし本当のところはよくわからないというのが、真実に近いようです。

これだけ自在に人生のことを述べたものは珍しいのではないでしょうか。

仏教に傾斜した内容の段があるかと思えば、仁和寺の法師を笑いものにしたような傑作もあります。

論理的にも一貫性があるようで、実はないというのがその本質なのかもしれません。

今回とりあげる107段は、学校ではやった記憶がありません。

女性の本質について論じた段なので、賛否両論があるのでしょう。

わざわざ面倒くさい論議に関わるのだけは、教科書の編集者も避けたいというのが、本当のところだと思います。

それよりも人生の無常などを扱っていた方が無難だと判断したに違いありません。

今回はそこをあえて、突き破ってみたいと思います。

女性の方からみると、実に失礼だと感じることもあり得ます。

しかしそこに兼好法師の観察眼の鋭さがあるのです。

ぜひ、最後まで読んでみてください。

本文

女の物いひかけたる返事、とりあへずよきほどにする男はありがたきものぞとて、亀山院の御時、しれたる女房ども、

若き男達の参らるる毎に、時鳥や聞き給へると問ひて試みられけるに、なにがしの大納言とかやは、数ならぬ身はえ聞き候はずと答へられけり。

堀川内大臣殿は、岩倉にて聞きて候ひしやらむと仰せられたりけるを、これは難なし。

数ならぬ身、むつかしなど定めあはれけり。

すべてをのこをば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。

浄土寺前関白殿は、をさなくて安喜門院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞと、人の仰せられけるとかや。

山階左大臣殿は、あやしの下女の見奉るも、いとはづかしく、心づかひせらるるとこそ仰せられけれ。

女のなき世なりせば、衣紋も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふべき人も侍らじ。

かく人にはぢらるる女、如何ばかりいみじきもねのぞと思ふに、女の性は皆ひがめり。

人我の相深く、貪欲甚だしく、ものの理を知らず、ただ迷ひの方に心もはやく移り、詞も巧みに、苦しからぬことをも問ふ時はいはず、

用意あるかと見れば、又あさましき事まで問はず語りにいひ出す。深くたばかりかざれることは、男の智慧にもまさりたるかと思へば、そのこと跡より現るるを知らず。

すなほならずして、拙きものは女なり。

その心に随ひてよく思はれむことは、心うかるべし。

されば、何かは女のはづかしからむ。もし賢女あらば、それも物うとく、すさまじかりなむ。

ただ迷ひをあるじとしてかれにしたがふ時、やさしくもおもしろくも覚ゆべきことなり。

現代語訳

女性の問いかけに気の利いた返事をする男は、なかなか得難いもののようです。

亀山院の御代に、いたずら好きの女房たちが、年若い公達が参内する度毎に、ほととぎすの声をもうお聞きになられましたかと試しに訊き、なんと答えるかを試みました。

するとある大納言は、取るに足らぬ身の私なぞはまだ耳にしておりませぬ、とお答えになられたとか。

一方、堀川内大臣殿は、岩倉で聞きましたようなとおっしゃいました。

こちらの方が無難でしょうか。

取るに足らない身だなんてずいぶん嫌味ですよね、と彼らは賑やかに優劣を決めたそうです。

男というものは、女性から笑われたりしないように養育しなければならないものらしいです。

浄土寺の前の関白殿は、幼少の頃から安喜門院が手塩にかけ、そのあたりのところをよくよく教えて差し上げたので、言葉遣いが実にご立派であられる、とさる方が仰っておられました

山科の左大臣実雄殿は、無教養な女性を相手にすると気が置けて仕方がない、むしろこちらが気を遣わなくてはならないので疲れると言ったそうです。

万一この世に女性がいなければ、衣紋も冠にも構うこともない、身だしなみをきちんとしようと心掛ける男もいなくなることでしょう。

こうまで男に気を遣わせてしまう彼らが、それではどれほどのものかと言えば、いやはや女性の本性は皆、歪んでねじまがっているもののようです。

彼女らはいたって貪欲で、ものの道理を一切わきまえず、迷うことを楽しむかのごとく心変わりが激しいのです。

言葉巧みでこちらの問い掛けにはもったいぶって即答もせず、それならばなにか嗜みがあるのかと思うと、訊いてもいない突拍子もないことまでペラペラと喋りまくります。

言葉の表面を飾ることにおいては男の智恵より数段勝ってはいるかと思えば、その偽りがばれてしまうことには分別が及びません。

素直ではないのです。

所詮は拙いということでしょう。

そういう女性に気に入られようと腐心するのは、まことにもって残念至極というものです。
彼らに気を遣うなど実に無駄なことなのです。

たとえ賢い女性というものがいたとしても、それはまたそれで親しみもわかず、面白くないのではないでしょうか。

それでもただ、熱くなって女性の言うがままになっていると、優しさを感じ夢中になってしまうのだから、人間というのは厄介で不思議なものです。

兼好の思考パターン

第107段は、女性の本性を論じた段ですが、ここにも彼の思考の型がはっきり表れています。

最初は必ず具体例から始まります。

ここでは宮廷で女房たちが若い公達に機知ある返事を試みる逸話が最初です。

具体的なエピソードを提示してから、そこから一般論へと進むのです。

この方が理解がはやいと考えたのでしょう。

そこから一気に一般論へ付き進みます。

「女に笑われぬよう心がけよ」と述べ、女性を男を試す存在として描いています。

ところが後半では一転して、女性はひがみやすくて、欲が深く、理を知らず、迷いに従うと手厳しく断じます。

彼は最初に肯定的に扱った存在を、別の角度から批判するというパターンを好みました。

読者が意外性を感じやすく、話の内容に自然とひきこまれていく効果をねらったものだと思われます。

特にここでは、貪欲、迷い、不安定な心という仏教の「煩悩」をすべて取り上げています。

つまりこの文章は女性論の形を取りながら、実は 人間存在そのものの弱さを語っているとも考えられるのです。

立論が巧みですね。

個別的な女性の話か思っていると、知らない間に人間一般の本質にまで言及が広がっていきます。

結論もこれだと断定するのではなく、人間とは実に不可思議な存在であるという結論に至るのです。

兼好法師にしてやられたというところでしょうか。

文章の余韻さえ感じます。

女性は理性的というより「迷い(感情)」に従って動く存在だからこそ、そこに「やさしさ」や「面白さ」が生まれると彼は言っています。

不安定であることの魅力が「女性の本性」といえるのかもしれません。

これを現代にまで広げた時、同じことが言えるのかどうか。

仏教的な無常観が主流だった中世とくらべてみるのも面白いのではないでしょうか。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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