「ラベルの功罪」キャラ設定をすることで世代格差を再構築しようとする人たち

小論文

ラベリング

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は世代とそれにまつわる話について少し書きます。

一言でいえば、自分と違う考え方をする人や人種は全て異物なのかもしれません。

大袈裟にいえば、全ての他者ということになります。

簡単には理解できない存在ですからね。

しかしそれではあまりにも間口が広がりすぎてしまうので、ここでは若者と大人、世代間ギャップなどをイメージして考えてみます。

ラベリングとはある人物や物事に対し、特定の評価を固定する行為を指します。

別名、「レッテル貼り」とも呼ばれますね。

貼られたラベルがその人の自己認識や行動、周囲からの評価に強く影響を与えることがあります。

「ラベリング効果」という表現を聞いたことがありませんか。

たとえば、仕事仲間の同僚たちに「Aさんは気が利く人だから」と声をかけていると、Aさんは次第に気が利くふるまいをするようになっていくのです。

ラベリングをすることによって、こちらの期待する良好な関係を両者の間に作ることができるようになるものです。

私たちの身の回りには数多くの「ラベル」が存在しますね。

複雑で混沌とした現象を、1つの言葉が見事に切り取る場面を多く見かけます。

「ラベル」という考え方が個人の問題に光を当て、理解を深めるという重要な役割を持っていることは言うまでもありません。

しかし「功」を持つ一方で、特定の集団を社会から切り捨て、責任を転嫁するための「罪」を持ち合わせることもあります。

むしろその力を知っていて、わざと使うということの方が多いかもしれません。

確かにラベリングは、ある現象や構造に輪郭を与え、問題意識を共有可能にする力を持っています。

特にある世代を集合体として認識する方法は強い意志はなくても残忍な力強さを孕んでいるものです。

ある世代に対してつけられたネーミングをいくつか思い出してみましょう。

団塊の世代、しらけ世代、新人類、就職氷河期世代、団塊ジュニア、ゆとり世代、Z世代などなど。

実にたくさんありますね。

まとまってこのように名前をつけられると、なんとなくそこに1つの顔がみえてくるから不思議です。

ラベルは、社会問題や個人の問題を明らかにする点で有効に作用するようです。

しかし、世の中に存在する多くのラベルは、特定の対象を「切り離す」という排除を目的として利用されれる側面を持つことは、先ほど示しました。

考えてみると、「若者」は、歴史的に繰り返しそのような排除の目にあってきたのではないでしょうか。

これらの背景には、社会が若者に向ける差別的な視線があります。

ある大学の入試小論文の問題に、これと似たテーマを取り上げたものがありました。

課題文

ラベルは、社会問題や個人の問題を明らかにする点では有効に作用することがあります。

例えば、男性が偉そうに説教する事象に「マンスプレイニング」という言葉が使われるようになりました。

女性をはじめ多くの人がさんざんやられてきたけれど一体なんなのか分からなかったものが、ラベルが貼られたことで「ああ、そういうことか」と腑に落ちる。

他にも「ホモソーシャル」など、男社会のありようを明らかにするラベルが近年広がったことで、問題に輪郭が与えられました。

しかし、世の中に多いのは、ラベルを貼って「切り離す」という排除が目的のものでしょう。

中でも「若者」は繰り返し、そういう目に遭ってきました。

若者論は古くからありますが、特に1990年代以降、若者を蔑視し、上の世代の責任を回避する道具として使われてきました。

「若者の不可解な行動」という問題が設定され、「自分たちとは違う」と社会から切り離す。

「倍速視聴」などの消費行動に関する論評もそうです。

そして「自分たちに責任はない」と上の世代がつくった社会の問題にはせず、個人の責任にしていったり、逆に若い世代が社会問題の要因であるかのように扱われたりします。

例えば2004年、学生ではないのに働かず、働こうともしない若者に「ニート」というラベルが与えられました。

NEET は not in education, employment or training の略です。

英国で生まれた時には、「社会的排除」という普遍的な問題として使われた言葉でした。

しかし日本に輸入されると、「甘え」や「劣化」をバッシングする文脈が主になります。

現象を社会と照らし合わせ、社会の構造的な問題を問うのではなく、個人の心構えや態度の問題にされてしまいました。

重要なのは、若者を意識しすぎないことでしょう。

「若者にこれがウケる」とか「今の若者はこれだ」というマーケティングのような若者分析をやめて、世代を取り払って社会問題を語る。

若者を切り離すのではなく、一人ひとりが、同じ自分の社会にある問題だと認識することが必要だと感じています。

出典 後藤和智「若者の排除狙う差別の目」

設問

この文章には次のような設問がついています。

問い あなたの周りにある「ラベル」を例にとり、そのラベルの功と罪を800字以内で述べなさい、というものです。

ヒントは功と罪の両方からこの内容を扱いなさいという部分です。

世代間のラベリングというレベルほど、強い内容の文章ではありませんが、理解できない他者に対する認識の方法という視点は共通しています。

たまたま読んでいた本の中に次のような記述がありました。

内田樹著『複雑化の教育論』です。

彼はラベリングを「キャラ設定」というもっと個人的な内容にして説明しています。

その部分を少しだけ抜き書きします。

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いまの子どもたちは学校で集団の中に置かれると、まず「キャラ設定」をされます。

いくつかの定型的なキャラクターがあって、それをあてがわれる。

ジャイアンとかスネ夫とかのび太とかいうわかりやすい便宜的な「ラベル」を貼られる。

仮に納得のゆかないラベルであっても、それを受け入れれば、とりあえず集団内部では自分の居場所が保証され、拒否すれば居場所がなくなる。

でもこのキャラ設定の怖いところは、一度それを受け入れると、もうそこから出られなくなるということです。

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この傾向は、時代が下るにつれて、しだいに強化されてきているような気がします。

ここでのポイントはラベルの功罪です。

私たちの周りには、意識的あるいは無意識的に、無数の「ラベル」が存在します。

その中で最もラベルがすぐれていると思うのは複雑な世界を理解しやすくなるということです。

別の言葉でいえば、「認知コストの削減」でしょうか。

ある世代にラベルを用いることで、共通理解が一気に進みます。

おそらく最初にネーミングした人物の思惑をはるかに超えることがあるのでしょう。

デジタルネイティブ、SNS、多様性などというキーワードを打ち込めば、「Z世代」という表現がすぐ検索のトップに浮き上がってくるはずです。

ラベルの「罪」

しかし、ラベルはその裏側に難しい問題をつねに抱えています。

それが無言の「排斥」と「ステレオタイプ化」です。

1つの言葉でまとめてしまうのは簡単ですが、同時に同じパターンに落とし込む作業には、怖い面が多々あるものです。

個人の持つ顔は多様です。

それを「ゆとり世代」と一括りにしてしまうことの無理は、最初から十分に予想できます。

確かにその通りだと納得する人が多くいる反面、偏見によって排斥するための根拠ともなりうるのです。

ある世代を不必要に分断する必要がどこまであるのでしょうか。

これは実に大きな問題です。

両者の功罪をここで、じっくり論じてみることで、自分の体験に結びつけやすいはずです。

このような問題は実体験に即して論じた方が、採点者にアピールします。

最終的にはどこに結論をもっていくのかを考えなくてはなりません。

ラベルを使って個性を消してはなりません。

ラベルを貼られることで、ある種の諦めをもつことがあってはならないのです。

確かにラベリングは、複雑な世界をシンプルに捉えるための有効な手段です。

他者との関係性の糸口を見つけるという功績を持ちます。

しかし、その単純化の裏側には、、不当な偏見や差別を生み出すという深刻な罠があります。

負の側面を克服するためになにをすればいいのか。

そこが最終的なポイントになるでしょうね。

あなたの体験がここで生きてきます。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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