夢判断
こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は夢判断について考えてみます。
『蜻蛉日記』は平安時代中期の日記です。
作者は右大将道綱の母という人です。
本名は記録として残っていません。
藤原兼家との結婚生活の苦悩と息子、道綱への愛情で構成された作品です。
夫、兼家は多忙な人でした。
滅多に彼女の住む屋敷を訪れることもありません。
作者はいつも心細く悩み続ける日々を送っていました。
兼家は代々摂政、関白をつとめた藤原氏北家の嫡流です。
道綱はその子でもあります。
しかし作者は兼家の正妻ではありません。

中流以下の受領階級の娘です。
したがって、道綱は確かに兼家の子供ですが傍流なのです。
それほど簡単に出世をし、華やかな貴族社会で生きていけるなどと夢を見ない方がいい立場でもありました。
しかし母親は、どこまでも息子の出世を願います。
そこへ突然のように周囲の人が見た「夢」の話がいくつも舞い降りてきました。
いつもなら夢判断などしてもらうことはないはずでした。
ところが戯れに問うてみたことから作者の苦悩がさらに広がります。
内容があまりにも想像を絶するものだったからです。
「日」は権力、天皇をあらわし、「月」皇后を暗示するといいます。
それを「足で踏み」「胸に抱く」というのは、まるで帝を凌ぐような強い運命を示しているとも読めるというのです。
作者の子が天皇や皇后になることさえ、予感させる夢です。
夢解きの判断は朝廷を自分の意のままにする可能性に満ちたものでした。
最初は現実離れをしすぎた話だったものが、急に光り輝く未来への予感に満ち溢れたものになったのです。
原文
十七日、雨のどやかにふるに、方塞(かたふた)がりたりと思ふこともあり、世の中あはれに心細くおぼゆるほどに、
石山に一昨年詣でたりしに、心細かりし夜な夜な陀羅尼(だらに)いとた尊う読みつつ礼堂にをがむ法師ありき、問ひしかば、
「去年から山籠りして侍るなり。穀断ちなり」など言ひしかば、「さらば祈らせよ」と語らひし法師のもとより言ひおこせたるやう、
「いぬる五日の夜の夢に、御袖に月と日とを受けたまひて、月をば足の下に踏み、日をば胸にあてて抱きたまふとなん見てはべる。
これ、夢解きに問はせ給へ」と言ひたり。
いとうたて、おどろおどろしと思ふに、疑ひそひてをこなる心地すれば、人にも解かせぬ時しもあれ、夢あはする者来たるに、こと人のうへにて問はすれば、うべもなく、
「いかなる人の見たるぞ」とおどろきて、
「みかどをわがままに、おぼしきさまのまつりごとせんものぞ」とぞ言ふ。
「さればよ、これが空あはせにならず、言ひおこせたる僧の疑はしきなり。あなかま、いとにげなし」とて、やみぬ。
またある者の言ふ、

「この殿の御門を四脚になすをこそ見しか」といへば、
「これは大臣公卿出できたまふべき夢なり。
かく申せば、男君の大臣近くものしたまふを申すとぞ思すらん。
さにはあらず、君達御行く先のことなり」とぞ言ふ。
また、みづからの一昨日の夜見たる夢、右の方の足の裏に、大臣門(をとどかど)いふ文字をふと書きつくれば、
おどろきて引き入ると見しを問へば、「このおなじことの見ゆるなり」といふ。
これも烏滸(をこ)なるべきことなれば、ものぐるほしと思へど、さらぬ御族(ぞう)にはあらねば、わが一人もたる人、もしおぼえぬさいはひもやとぞ、心のうちに思ふ。
注
方塞がり(かたふさがり) 主に陰陽道でその方角へ行くことができない、不吉な状態を指す。
陀羅尼(だらに)梵語のまま読み上げる長文の呪。
穀断ち=修行や祈願を貫くため、五穀を一切食べずに行う修業。
烏滸なる心ち(をこなる心ち)=ばかばかしい心地。
現代語訳
天禄3年(937)2月17日のことです。
雨が静かに降っているし、あの人から今日は方塞がりで行けないという知らせがありました。
ますます世の中が心細くなっていくような気がしてなりません。
石山寺に一昨年参籠した折、心細かった夜毎に、陀羅尼経をとても尊く読んでいた僧侶がいました。
お尋ねしたら、「去年から山籠もりしているのです。穀断ちをしています。」と言うので、「それでは私のためにも祈って下さい」と頼みました。
その僧侶が言ってきたことには、「さる15日の夜の夢に、奥様の御袖に月と日を受けて、その月を足の下に踏んで、日をば胸に当てて抱いておられたのを見たのです。」

「この夢の意味をぜひ夢解きにお聞きください」と言ってきました。
ずいぶんと大袈裟な話だと思い、いい加減なことを云ってきてるのではと疑って、夢解きもしてもらわずいた時のことです。
ちょうど夢判断をする人がいたので、他人のことのようにして聞いたことがありました。
「一体どんな人がその夢を見たのでしょうか。」と驚いた顔をしています。
「その人は朝廷を意のままにして、思い通りの政治を行うでしょう」と告げたのでした。
夢判断は間違っていないが、やっぱり、あの僧がいい加減なことを云ったのだと疑わしくなりました。
内緒ですよ言って、それきりにしたのです。
また別の人が、「私はこの殿の屋敷の門を四脚(しきゃく)にするという夢を見た」というので、その夢を占ってもらったこともありました。
「それは大臣や公卿が出仕する門を意味します。あなたのご親族が大臣になる前兆ということです。あなたのご子息の将来のことですと言いました。
実は私も一昨日の夜、別の夢を見たのですとも告げます。
右足の裏に「大臣門(おとどかど)」という文字が書きつけられているのを見て驚き、足を引っ込めた夢だったというのです。
これを占わせてみると、「これも似たような意味の夢です」とのことでした。
なんだか馬鹿げた夢ばかりと思うけれど、気味が悪い気もします。
ただ、まったく縁のない家系の話でもないし、もしかしたら私の息子にも思いもよらない幸運が舞い込んでくるしるしかもしれないとふと、心の中で思ったりもしたのです。
不安な日々
道綱の母の書いた『蜻蛉日記』は実に複雑な女性の心理を描いた日記です。
毎日の暮らしの中で、なかなかやってこない夫を待つ妻の気持ちがよく表現されています。
女性は待つことしかできなかったのです。
いつやってくるかわからない男性を待つというのが日常の暮らしです。
唯一の楽しみは息子の出世でした。
少しでも上級の貴族になれることを夢見るのです。
しかし現実はそれほど甘くはありません。
母親の出自によって、男子の位も決まっていきます。
貴族社会の厳しさでした。
母から見ても「おとなしすぎるおっとりとした性格である」と記されていますが、弓の名手であったといわれています。
道長に代わって頼通が摂政内大臣となったものの、道綱は大臣に昇進することはできませんでした。

寛仁3年(1019年)には左大臣藤原顕光が辞任するという風聞が立ちました。
大臣になる最後のチャンスでもあったのです。
しかし顕光は結局辞任せず、道綱の大臣昇任は実現しませんでした。
母親が夢にまで願った子供の出世はかなわずじまいでした。
政治の世界の冷徹さは今も昔もかわりがありませんね。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。