「無名抄」和泉式部と赤染衛門の歌はどっちが優れているのかという段

二人の歌人

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

『無名抄』は『方丈記』の作者である鴨長明が著した本です。

成立は1211年以降です。

作歌心得、和歌の歴史、故実、歌人の逸話などが80の章段に分かれて記されています。

その中にちょっとユニークな段があるのです。

発端は『俊頼髄脳』という源俊頼の書いた歌論書です。

その中に、彼が父親の公任に和泉式部と赤染衛門の優劣を聞いたという話がでてきます。

藤原公任は当時の歌の世界の大御所ですからね。

二人の歌の芸術性をどのように考えていたのか、俊頼は知りたかったのでしょう。

公任は自分の意見を息子に率直に話したに違いありません。

その時の批評を述べた一節が鴨長明にとっても、よほど気になったものと思われます。

どうしても自分の意見を『無名抄』に付け加えたかったのでしょう。

それだけ、和泉式部と赤染衛門は、人びとの噂によくのぼっていたのです。

歌人として気になる存在だったに違いありません。

特に和泉式部は多くの男性と恋愛沙汰をおこし、ゴシップの中心人物でもありました。

恋多き女として知られていたのです。

何をしても目立つ存在でした。

和泉式部には男性を引き付ける魅力があったようです。

最初の恋人は為尊親王です。

和泉式部はそのとき既に橘道貞と結婚していました。

娘が生まれた後、夫は任国に彼女を連れては行きませんでした。

その後、為尊親王は亡くなり、弟の敦道親王との恋愛に発展します。

多くの人が和泉式部の生活態度や心の持ち方などにおいては赤染衛門には及ばないと考えていたようです。

あまりに生活が奔放すぎたのです。

この二人については紫式部も批評を加えています。

和泉式部は文才はあったものの、すぐれた歌人というわけではなく、赤染衛門の方が立派な詠みぶりの人だ、と言っています。

鴨長明はしかしそうはいっても勅撰集に多く入集しているという事実からみて、やはり和泉式部は立派な歌人ではないかと書き込んでいます。

勅撰集に選ばれている歌の数が246首もあるという事実はやはり重いものには違いありません。

本文

式部・赤染が勝劣は、大納言一人定められたるにあらず。

世こぞりて式部を優れたりと思へり。

しかあれど人のしわさは、主のある世には、その人がらによりて劣り勝ることあり。

歌の方は式部さうなき上手なれど、身のふるまひ、もてなし、心もちゐなどの、赤染には及びがたかりけるにや。

紫式部が日記といふ物を見侍りしかば、「和泉式部はけしからぬ方こそあれど、うちとけて文走り書きたるに、その方の才ある方も、はかなき言葉の匂いも見え侍るめり。

歌はまことの歌詠みにはあらず。

口に任せたることどもに、必ずをかしきひとふし目留まる詠み添へ侍るめり。

されど、人の詠みたらん歌難じことはりゐたらん、いでや、さまでは心得じ。

ただ口に歌詠まるるなめり。

恥づかしの歌詠みやとは思えず。

丹波の守の北の方をば、宮殿など渡りには、『匡衡衛門』とぞ侍る。

ことにやごとなきほどならねど、まことにゆへゆへしう歌詠みとて、よろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたる限りは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきに侍れ」と書けり。

かかれば、その時は人ざまにもち消たれて、歌の方も思ふばかり用ゐられねど、まことには上手なれば、秀歌も多く、ことに触れつつ間のなく詠み置くほどに、撰集どもにもあまた入れるにこそ。

現代語訳

和泉式部と赤染衛門の優劣は、大納言一人の判断で決まったのではありません。

世間の人びとは皆そろって、和泉式部のほうが優れていると思っています。

しかし人の評価というものは、その人の人柄によって優劣が変わることがよくあります。

歌をつくる力量では和泉式部に比べる者はないくらい上手ですが、立ち居振る舞いや、人との応対、心配りなどに関しては、赤染衛門には及ばないではないでしょうか。

『紫式部日記』を読んでみたところ、そこにはこう書いてありました。

「和泉式部にはよくないところもあるけれども、気軽に走り書きした手紙などを見ると、その方面での才能もあり、たわいのない言葉にも風情が感じられます。

ただし歌は、本当の歌詠みというには当たりません。

口に任せて詠んだ中に、必ずどこかしら人を惹きつける一句が目を留めるようです。

しかし、他人が詠もうとして苦心して詠んだようなものを、あれこれ論じ分けるほどの理解力はないようです。

ただ自然に口をついて歌が出るだけのようです。

それでも、気後れするほどの歌人だとは思えません。

丹波守の北の方(赤染衛門)は、宮中に出仕するときなどには『匡衡衛門』と呼ばれています。

特別に優れているというわけではないけれど、ほんとうに風格のある歌人です。

あらゆる事柄につけて軽々しく歌を詠み散らすことはしません。

些細なことを題材にしても、堂々とした表現で詠んでいるようです。

だから、その当時は人柄の点でも、また歌の点でも和泉式部は否定されたけれど、実際には上手で、すぐれた歌も多く、折にふれては絶えず歌を詠んでいたので、勅撰集などにもたくさん選ばれているのではないでしょうか。

二人の特徴

赤染衛門の歌で最も有名な歌は、『小倉百人一首』にも収録されているものです。

やすらはで 寝なましものを さ夜更けて 傾くまでの 月を見しかな

この歌は、恋人が夜になっても来ないことに心を悩ませ、結局朝まで月を見続けてしまった、という後悔と切ない心情を詠んだ歌です。

一方、和泉式部の歌も百人一首に収められています。

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな

この歌は、自分がもうすぐこの世を去ることを悟り、せめて冥土の思い出となるよう、もう一度愛する人に会いたいと願う、切ない恋心を表現した情熱的な一首です。

彼女の歌は激情型のものが多いですね。

ぼくの好きな歌に次のようなものもあります。

物思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る

恋に悩むあまり、目の前の蛍が自分の身体から抜け出した魂のように見えるという歌です。

『無名抄』の中で、鴨長明は和泉式部の評判に抗って、これだけたくさんの勅撰集に選ばれた歌人には、持って生まれた才能があるのだと強調しています。

確かに歌そのものの力と恋する男性にぶつかっていく時の力は、どこかで結びついているのかもしれません。

二人の人生についてどうぞ調べてみてください。

家庭人として生きた赤染衛門と、恋に生きようとした和泉式部の生涯との対比も興味深いものと思われます。

歌は作者の存命中は作者の人柄によって優劣さが決定されることがあるという事実をつかんでおくと、理解がしやすいのではないでしょうか。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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