「小国寡民・老荘」便利な道具や技術を避け質素な暮らしを望む人生のあり方

ノート

老荘の思想 

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

世界があまりにも目まぐるしく変化しています。

AIの時代に入り、人間の存在意義を正確に把握することも難しくなりつつあります。

どこに人生の価値を見出せばいいのか。

命の重みとは何か。

考えれば考えるほど難しいテーマですね。

中国の思想家たちも、それぞれの時代を苦しみながら生き抜きました。

老子や荘子は、世の中が悪くなるのは、人間がこざかしい知恵を振り回すからだと考えたのです。

その結果、原始的な生活、素朴でありのままの姿こそが幸福であるという思想に達しました。

老子は春秋時代末期、楚の人です。

道家の祖といわれます。

荘子は戦国時代中期の宋の人。

人為を排して大自然に戻り、絶対の境地に遊ぶことを説いたのです。

老子と合わせて老荘の思想と呼ばれています。

今もなお、多くの人が彼らの思想にひかれるのはなぜでしょうか。

そこに不思議な力があるからです。

これだけ時代が複雑になると、いつ地球が破滅しても不思議ではないという気さえしてきます。

多くの国家が核を保有し、一触即発の危機が過去に何度もありました。

そのたびにかろうじて危機を逃れてきましたが、それが未来永劫まで続くのかどうかもわかりません。

生きることの意味

人は誰もが幸せになるために生まれてきました。

このことは間違いがないと思います。

しかし現実には本当にそうなのだろうかと、疑いたくなるようなことばかりが続いています。

ガザ地区への度重なる空爆を見ていると、正義とは何かという根本的な問題を考えざるを得ません。

長い歴史的な経緯がある中で、互いの民族を憎みあいながら、殺し合うという図式も消えることがないのです。

近代兵器に続いて、今世紀はAIの活躍がみごとです。

人類のためになれば、それも歓迎されます。

Photo by uka0310

しかし、現実には真逆のことも多いのです。

無人のドローンが編隊を組んで敵を攻撃するなどという事実をどう考えればいいのか。

その動作は全てAIが組み立てていることを知れば、寒気しか覚えません。

ここまでくると、人間の幸せとはどのようなものなのかという根本的な疑問をもたざるを得ないです。

かつて高校の授業で習った漢文の中に「小国寡民」という表現がありました。

老荘の思想に立ち戻れというスローガンは理解できます。

もしかすると、そういう場所にしか、現代の可能性が残っていないかもしれないという現実は重いです。

原文を読んでみましょう。

小国寡民(原文)

小国寡民、什伯(じふはく)の器有りて用ゐざらしむ。

民をして死を重んじて遠く徙(うつ)らざらしむ、舟輿(しうよ)有りと雖(いへど)も、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳(つら)ぬる所無し。

民をして復た縄を結びて之を用ゐしめ、其の食を甘(うま)しとし、

其の服を美しとし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましめば、隣国相望み、鶏犬の声相聞こゆるも、民老死に至るまで、相往来せず。

現代語訳

小さい国は人口が少なく、いろいろ便利な道具があってもあまり使ったりしないものです。

人々の命を大切にするため、遠方への移住もそれほど奨励していません。

たとえ小舟と車があっても、それに乗ることはなく、武器や鎧があっても使うことはないのです。

人々には太古の時代にそうしていたように、縄に結び目を作って約束のしるしとして用いさせたりもします。

自分たちのつくる食事が最もおいしいと感じ、衣服を美しいと思ってもらうことが生きるために大切なのです。

ほどよい住居に住み、自分たちの風俗や習慣、文化を楽しむことができれば、それで十分なのです。

その結果として、隣国の様子を互いに遠くから眺めるだけになります。

鶏や犬の鳴き声が聞こえるほどに近くても、人々は年老いて死に至るまで、互いの国を行き来することさえ、ほとんどないのです。

昔ながらの生活

この小国寡民という文章は、あまりにも現実離れしすぎていて驚かされます。

しかし少しだけ、憧れに近いものを感じるのも事実です。

昔ながらの生活をし、食事や服、住んでいる家や習慣に満足をするという時代はとうに過去の夢物語です。

柳田国男が説いた「常民」という感覚に近いような気さえします。

ある意味、日本の農村に生まれた人の原風景に近いのかもしれません。

朝起きて、野良仕事に出、暗くなったら家に帰る。

夜もはやく寝る。

年に数度の祭りを楽しみに日常生活を送る。

本来の意味で、人の営みそのものかもしれません。

もしかすると、こういう環境をどこかで恋しがっている自分がいたりもします。

老子は民を無知で単純な状態に保ち、外部との交流を遮断することで、争いのない平和な社会を実現しようとしたのでしょうか。

何も知らせず、教えずという意味なのか。

小国寡民の村では、人々は死を重く感じ、遠くに移住しようとはしません。

船や車があっても乗ることはなく、武器や鎧があっても使用することはないのです。

人々は縄を結び使うような生活をして、食事はおいしく、服は美しく、住まいは安定しています。

日々の暮らしは楽しいのです。

確かに隣国は互いに見通せます。

鶏や犬の鳴き声まで聞こえるのです。

しかし人々は老いるまでお互いに行き来をしません。

これを読んでいると、陶潜の著した『桃花源記』を思い出します。

漁師が桃源郷に迷い込んだ時の様子を描いた作品です。

老子の説いた「無為」という言葉は、何もしないでいることという意味によく使われます。

しかし彼の「無為」は一切何もしないということではありません。

むしろ、積極的な無為とでも呼んだ方がいいのかもしれません。

作為的なことはなにも行わないという意味なのです。

世界の構図

この文章を読めば読むほど、現代の日本のおかれた位置が見えてきます。

日本だけではありません。

世界全体の構図がそこに浮かび上がってくるのです。

AIに支配されつつある現代そのものと言ってもいいのかもしれません。

By: George Ting

もちろん、小さな政府として地域主権を前面に出し、地産地消を標榜することも可能です。

確かに疲れやストレスを感じる人が増えつつあることも事実でしょう。

「スローライフ・スローフード」「癒し」「田舎暮らし」などという表現をそこに加えると、今日の私たちがどれほど、日常生活に疲労感を感じているのかが実感されます。

しかしだからといって、老荘が夢見た暮らしができるとは、誰も思えないのです。

どうしたらいいのか。

人間が陥ってしまった陥穽の深さだけが身にしみてなりません。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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