笑いの本質
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は坂口安吾が1939年に書いた「茶番に寄せて」の一部を読みます。
なぜ日本には道化の概念が根づかないのかというのが主題です。
笑いの本質を探るのは大変に難しいですね。
落語家、桂枝雀はよく笑いを「緊張の緩和」だと説きました。
笑いとは、ただおかしいから笑ってしまうものなのです。
その理由を解釈すること自体が、本来の笑いの精神から外れているのかもしれません。
しかしなぜおかしいのかということを探っていくと、これほどに厄介なテーマはないです。
日本ではすぐれた道化芝居がほとんど公演された試しがありません。
一般に日本では、批評家も作家も、編集者も読者も厳粛で笑うことをあまり好まないようです。
人を笑わせる仕事を、一般にはやや低く見る傾向があるとも言えます。
落語や漫才などは「笑芸」ともいわれ、歌舞伎、能などと同列には扱われていません。
日本人は緊張状態を長く続ける芸能の方が好きなのでしょう。
しかしそこに「緩和」の要素がある狂言や落語が入れば、もちろん「芸」として認識されます。
ある意味、懐の深さも持っているのです。
「道化」という観念が日本に根付かないのには、理由があるはずです。
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太宰治の『人間失格』に登場する主人公、大庭葉蔵は自ら「道化を演じる」ことで世間と折り合いをつけようとしました。
しかしこの感覚を上手に使った作家がいるかといえば、それほど多くはありません。
夏目漱石の『吾輩は猫である』という小説には、落語的なユーモアがあちこちに散見されます。
事実、彼は三代目柳家小さんのファンでした。
だからといって、その小説に道化的な要素が強いのかといえば、そんなことはありません。
ごく真面目に知識人の苦悩を語っています。
道化は不合理の肯定
道化は不合理を合理化しきることができないゆえに、不合理を肯定し笑い飛ばしてしまおうとします。
道化には善悪の判断がありません。
どんな不合理や矛盾もただ肯定するのです。
道化文学は、作者にとっては趣向がすべてです。
読者から笑ってもらえればそれでいいということでしょう。
江戸時代の読本、十返舎一九『東海道中膝栗毛』などの例もあります。
滑稽本の代表作ですね。
弥次さん・喜多さんの珍道中を描き、二人のキャラクターが旅先で失敗を重ねる様子はまさに道化そのものです。
道化の作者は誰に贔負も同情もしません。
また誰を憎むということもありません。
ただ肯定する以外には何等の感傷もないのです。
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つまり道化の作者には解決も解釈も元々ありません。
不合理も矛盾もただ肯定するだけなのです。
それが多くの真面目な日本人には許せないのでしょうか。
あまりに軽すぎて、信用するに足りないということなのかもしれません。
坂口安吾が「道化」という概念について書いたエッセイがあります。
「茶番に寄せて」がそれです。
読んでみましょう。
本文
風刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。
風刺する人の優越がある限り、風刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。
風刺は、風刺される物と対等以上であり得ないが、それが揶揄という正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点で、物言わぬ風刺の対象がいつも勝ちを占めている。
風刺にも優越のない場合がある。
風刺者自身が同時に風刺される者の側へ参加している場合がそうで、また、風刺が虚無へ渡る橋にすぎない場合がそうだ。
これらの場合は、風刺の正体がすでに合理に属しているからは、もはや風刺と言えないだろう。
風刺は本来笑いの合理性を掟とし、そこを踏み外してはならないのである。
即ち風刺は対象への否定から出発する。
これは道化の邪道である。
むしろ偽物なのである。
正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定から始まる。
警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸のみにし、笑いという豪華な魔術によって、うやむやのうちにそっくり昇天させようというのである。
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合理の世界がさんざん持て余した不合理を、もはや精根つき果てたので、突然不合理のまま丸のみにして、笑いとばしてしまおうというわけである。
だから道化の本来は合理精神の休息だ。
そこまでは合理の法でどうにか捌きがついてきた。
ここから先は、もう、どうにもならぬという、ようやっと持ちこたえてきた合理精神の歯をくいしばった渋面が、笑いの国では、突然赤ふんどしひとつになって裸踊りをしているようなものである。
それゆえ、笑いの高さ深さとは、笑いの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、そうして、とうとう、どの点で兜を脱いで投げ出してしまったという程度による。
だから道化は戦い敗れた合理精神が、完全に不合理を肯定したときである。
即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れながらも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ。
道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。
そこまでは合理の国で悪戦苦闘していたのである。
突然ほうりだしたのだ。
むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突きだしたのである。
狂言「蝸牛」の場合
道化の本質を彼なりの筆致で細かく分析しています。
合理化できなくなった途端にむしゃくしゃして、不合理を突き出したという表現はユニークです。
ここで狂言のひとつ「蝸牛」を考えてみましょう。
太郎冠者はかたつむりを知りません。
主人から伯父の病気を治す薬にと、蝸牛を取りにいくことを命ぜられます。
しかし蝸牛がどんなものか見たことがないのです。
そこで主人は大まかな特徴を教えます。
その特徴とは藪に住み、頭が黒くて、腰に貝を付けているとのこと。
折々は角を出すというのが全ての情報です。
主役を演じる山伏は藪の中で寝ています。
太郎冠者が蝸牛を求めていながら実物を知らないのをいいことに、自分がその蝸牛であるといって太郎冠者をだますのです。
騙されていることを知らない太郎冠者は、山伏からさんざんにからかわれ、挙句の果ては主人ともども山伏の踊りに乗せられて大騒ぎをするという話です。
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蝸牛を探すことを命じられ、山伏をかたつむりだと勘違いするなどというのは実にばかげた話ですね。
不合理な笑いそのものの作品だといえます。
しかし価値判断を全て消去し、徹底して演じると、そこに笑いが生じるのです。
合理の世界に疲れた人々が、人間の存在自体に宿っている不合理や矛盾を肯定したところから笑いが始まります。
典型的な道化の表現です。
こういう作品が日本にもあるということを知っておいてください。
太宰治の道化意識
道化というのは、人生の戦いに敗れた合理精神が何もかも投げ出してしまう瞬間に生まれます。
ほんの一瞬だけ人は笑います。
そしてあとには静寂と長い沈黙が続くのです。
その瞬間に達するまでは一切の笑いを禁じられています。
難行苦行を続ける不合理な経験を強いられるのです。
太宰治の『人間失格』で、太宰本人をモデルにした主人公の葉蔵が演じ続けた道化のスタイルがまさにこれです。
葉蔵は幼少期から周囲との違和感に悩んでいます。
しかしそれを正直に語ったり孤独に悩んだりすると、かえって違和感が白日の下に出てきます。
日常生活の中で、この主人公のような違和感や不信感は誰でも感じるものです。
そういう意味で、葉蔵が感じた道化の精神は普遍的なものといえます。
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人間失格における「道化」には、自虐的な要素が強くあります。
自分自身を「道化」と呼び、自分の人生を他者の目で冷静に見ています。
自分を笑い者にしてしまう性癖が強いのでしょう。
多かれ少なかれ、そういう要素を人は持っているのではないでしょうか。
この「道化」という言葉は、太宰治の小説を読む時、重要なキーワードとなっています。
『斜陽』の小説にもこの要素が出てきます。
時間のある時に、そうした精神の構造を読み取ってみてください。
道化の持つ複雑な形がよく見えるのではないでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。