「蜂飼耳」詩はいつも近いところにあるのに「見たことのない風景を見たい」

学び

詩の本質

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は詩人、蜂飼耳の作品を通して詩の現在を考えてみたいと思います。

詩とは何かというテーマは永遠のものです。

今日、現代詩を読もうとする人は限られています。

先日亡くなった谷川俊太郎は多くの読者を抱えていました。

しかしその勢いが、現代詩にまで届いているかといえば、疑問です。

書店にいっても、詩集のコーナーには数冊が申し訳程度にあるだけです。

「現代詩手帖」や「ユリイカ」などの雑誌も置いていません。

わたしたちの日常の中で、詩を読むという習慣そのものがなくなりつつあるのかもしれないのです。

蜂飼耳については、このブログでも2度ほど取り上げました。

1974年生まれの詩人、小説家です。

2002年に詩集『いまにもうるおっていく陣地』で第5回中原中也賞を受賞しました。

自らの心の内側へ降りて、世界を見つめ続けようとする意志の強い人です。

2025年度大学入学共通テストの国語にも短編『繭の遊戯』(2005年発表)が出題され、その内容がネットで話題になりました。

その理由は「ヒス構文」が入試に登場したというものです。

主題はおじさんの暮らしぶりをじっと見守る私の視線にあります。

売れそうもないオカリナを一心につくる、フリーターのおじさんの生き方を通して、自己を探るという構造になっています。

ちなみにネットで取り上げられたのはもっぱら、作中に登場する会話の一部分でした。

「ヒス構文」とはZ世代で話題になった言い回しのことをさします。

奇妙な論理とヒステリックな語気で、相手に罪悪感を抱かせる構文のことです。

その文章とは「わたし」の母と祖母が言い争うシーンに登場します。

「もうわかった、あたしが死ねばいいんでしょ、じゃあ、死ぬよ」というのが一節です。

機会がありましたら、全文を読み通してみてください。

静かな短編です。

小屋にこもって何かを作り続けているおじさんを見続けている、幼いころの「わたし」の先に何がみえていたのか。

それを回想する形で作品は描かれています。

また、つい先日中学2年生向けに行われた進研模試では『夏を教えて』という短編が使われました。

スーパーで見かけた飼育ケースを見かけたとき、昆虫と人間との共生を考えるという作品です。

細部にまで目が届く詩人の視線が痛いくらいに突き刺さってくる短編です。

彼女の文章はもしかすると、試験の問題にしやすいのかもしれません。

おそらく、事柄の本質に迫ろうとする視線の確かさがつねに見え隠れしているからかもしれません。

詩というものについてまとめた文章がありました。

蜂飼耳詩集(思潮社)の中にあった文です。

一部だけですが、紹介します。

本文

詩はそれまでにないものの見方を示す方法の一つに他ならない。

言葉が言葉を照らし出し、それによってさらに別の言葉に光が当たり、一編の全体図へ向かって力に似たものを集めていく。

見慣れたものも、見知らぬものになっていく。

一片の詩が生まれる途中の、計画性はないにもかかわらず、言葉を必然的に引っぱっていく力、動き。

それが詩だろう。

次になにが出てくるのかは、わからない。

けれど、出てきたものは、ほとんど説明しがたい次元で素早く動く選択と、判断の流れにさらされて、言葉と言葉の間に居場所を定めようとする。

言葉は、定められてしまうことから逃れようとしながら、それでも場所を得て、他の言葉を支えたり、あるいは飛び越したり、裏切ったりする。

そんな繰り返しのなかに、リズムやテンポが織り出される。

一片のかたちが浮かび上がってくる。

書いている途上、道のり、過程そのものが、自分にとってはもっとも強烈な死の瞬間であり、いったん定着させてしまうとそれは、たちまち屍のようなものとなる。

これまでに書いてきた詩、これから書く詩。

これまで読んできた詩。

これから出会う詩。

すべては言葉の屍やその残像なのだ。

だからこそ、読む時にはよみがえる。

そのようにしか言葉と出会うことはできない。

つまり、そのようにして、言葉と出会うことができる。

現代の詩が事あるごとに対面する疑念の一つは、意味だ。

その行は、その言葉はその詩はどういう意味なのか、と。

言葉は、意味を担う運命を託されているから、単純に無意味のふりをすることはできない。

結局は、無意味も意味に取り巻かれ、見張られている。

その結果は詩の歴史のなかにも投げ出されている。

意味らしきものを一編の詩から引き出すことはできる。

ということは事実だ。

けれど、意味やテーマやモチーフという角度から説明したとしても、それでその一編を語ったことにはならない。

なぜなら、詩は言葉そのものがもつ音の性格と常に一つのものであり、この点を含めることで、単なる意味以上の出来事を引き起こしているものだからだ。

言葉をたどっていって、その先に見えてくる、意味以上の出来事。

そこにある言葉を総合したところ以上の事柄。

鍵はそこにある。(中略)

現在では確かに、詩と散文、というふうに区切られることは多い。

ところが、しばらく前の時代のものを読んでいくと、詩をめぐって使われる散文という言葉の受け取り方が、現在とはかなり、ずれている場合があることに気がつく。

というより、詩が、狭い意味での韻文としての性格を手放し口語自由詩の道をひたすら歩んできた。

その過程で、あるいは現在の時点でも、それならばいったいなにが文章、散文とは違うのか、という疑問に繰り返し直面せざるを得なかったことは、どこまでも外せない問題として残るわけだ。

口語自由詩の宿命。

いつでも文章、散文のとなりにあって、1編ごとに境界を求められることになるような場所に足場を得る。

言葉のすがた。

たとえば萩原朔太郎が『詩の原理』を書いたころと比べても、問題の要点はほとんど変わっていない。

「形式論」の第1章「韻文と散文」には自由詩が散文であるということは自由詩が「詩でないもの」に属することを致命的に断定するように感ずるところから、自由詩と散文を分けようとする傾向が生まれる、という指摘がある。

つまり散文という観念が常に「非時」という観念と結びついているから、両者を分離しようとする動きが生じるのだ、という。

現在でも同様だろう。(中略)

自由詩の、もうほとんどすり切れて見えないほどの、その自由とは何なのか。

自分で得たわけではない自由と、それゆえに生じる不自由は、考え直されなければならない。

なぜか。

いつでも、見たことのない場所を見たいからだ。

言葉が示す未知の場を見たい。

すべては中身との共鳴、一致と不一致、その進行、全体図にかかっている。

詩は、生と死をめぐる最高度の充実が一瞬にして増殖する場だ。

詩という場は、四方から湧き上がってくる。

言葉も言葉のすがたも、予想不能の幅を持って移ってゆく。

未知の場が与えられなかった時代はない。

詩はいつでも近いところにあるのだ。

言葉の屍

詩というものの本質を、これだけ見せつけられると、言葉も出ません。

まさにこれが全てなのではないでしょうか。

すべては言葉の屍やその残像なのだ。
だからこそ、読む時にはよみがえる。

この表現を読んでいると、この詩にはどのような意味があるのかという疑念を振り払って、それでも読みたいと感じる自分の意志を感じます。

口語現代詩がどこまで散文と違うのかといった大きな疑問を感じたとしてもです。

いつでも、見たことのない場所を見たいからだ。
言葉が示す未知の場を見たい。

この言葉にも同じ意志の強さを感じます。

日常の中で使われる表現が、場所を与えられた瞬間、異化するとでもいうのでしょうか

全く新しい命を吹き込まれ、別の表情を見せるのです。

それは詩人が最初に想像した風景ではないのかもしれません。

つまり誰も見たことのない場所のことです。

幻視ではないはずです。

そうではなく、新しい次元の空間に繰り広げられる、言葉のトポスとでもいったものに違いないのです。

そこへ無理にでも行きたいために、詩人は呻吟する。

当初の思惑を超えて、詩人自身を裏切ってくれるものを必死になって探し続ける行為に他なりません。

それは楽しいのか。

愉楽に近い行為なのでしょうか。

彼女の文章を読んでいると、恍惚とした時間が訪れるのをひたすら待っている飢餓感を感じます。

それを一度でも知ってしまった人間は、そこから抜けきれなくなるのかもしれません。

生と死といえば、使い古された表現のようにも感じます。

生きていながら、死を感じる瞬間をひたすら待つ行者のようにも見えるのです。

詩と神話とのあいだ

蜂飼耳は大学時代、「神話」を専攻しました。

詩を書くことの他に、『古事記』『日本書紀』『風土記』を読み、散文と韻文との違いを考え続けたのです。

とくに古代の歌謡にみられる、平行移動の感覚が近代以降の詩にも通じると感じたようです。

同級生は彼女に問いました。

神話なんて未開のものじゃないの、と。

古代の神話というものが、詩や言葉を考える上で、多くの糸口を示すものだと彼女は言います。

それは内容だけでは語れないもののことです。

常に、方法と一体のもの。

つまり「なにを」は「いかに」と一体で切り離すことはできないということを説明したのです。

「壹岐の嶋の記に」という詩があります。

冒頭だけを紹介しましょう。

壱岐(壹岐)は神話の島として、太古から多くの話が伝わっています。

とこよのほこらあり
ひとつのえのき あり
しかのつののえだ おいたり

時と場所の流れを分けあうことなく
骨とくずれた 人間たちの かつては
たしかにあった頭上で なん度でも
ねじ 巻かれ モリの植生 継がれ

じぶんを養分と吸いあげながら
眠りと覚醒を際限なく繰り返す
ものたちの あいだ ゆるゆると固まり
かたちをとった とってしまった
一足歩行が 移動する

それはあたしだ

(後略)

彼女の詩には確かに「平行移動」の確かさがあります。

神話の持つ深さを現代に生きる自分に移しかえる。

そこに言葉の喜びと苦しみが見えてくるのです。

蜂飼耳は高校生の頃、宮澤賢治の「春と修羅」を手に取ったと記しています。

読んでもわからない言葉や表現がいくつもあったのに、なぜか妨げにはならなかったとか。

この一編が自分のその後を決定した、決定されてしまったといっても大げさではないと書いています。

後にも先にも、二度とないことだったとのこと。

詩人が詩に出会う瞬間のダイナミズムを感じます。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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