癇癖談
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は上田秋成の『癇癖談』(くせものがたり)を読みましょう。
この作品の筆者についてご存知ですか。
上田秋成(1734-1809)といえば、なんといっても『雨月物語』ですね。
江戸時代後期の作家です。
怪異小説『雨月物語』の作者として特に知られています。
高校でも彼の作品を必ず一つは取り上げます。
特に有名なのが、浅茅が宿(あさぢがやど)です。
戦乱の世、一旗挙げるため妻と別れて故郷を立ち京に行った男が、7年後に幽霊となった妻と再会するという怖い話です。
名監督、溝口健二はこの作品を映画化しています。
映像の美しさが際立っている名作です。
その他、昏睡状態になった僧が夢の中で鯉になって泳ぎまわるという『夢応の鯉魚』。
西行法師が讃岐国にある崇徳院の墓に参拝したおり、崇徳上皇の亡霊と対面する白峯(しらみね)などがあります。
いずれも不思議な味わいの作品で、江戸時代にこういう怪異譚を書いた人がいるというだけでも特筆に値する気がします。
他にもいくつか作品集はありますが、やはり『雨月物語』の力は圧倒的ですね。
ところで、今回の『癇癖談』はこれらの作品とは全く違う表情を持ったエッセイです。
上田秋成が58歳になった頃の作品です。
人間の持つ気質や癖によって引き起こされる、さまざまな逸話が登場します。
当時の世相や風俗に並々ならぬ関心があったことがよくわかります。
実在の人物を皮肉って笑い話にしたような随筆もあります。
今回の作品は、「読書に熱中する人は、実利の追求とは無縁な一生を送る」という現実をシビアに風刺しています。
本を読むのは貧乏を招くためにしているようなものだというのです。
昔から学者で、財をなした人はあまりいませんからね。
裏からみれば、貧乏が原因で学者は卑しさを身につけてしまいがちだという側面にスポットをあてているのです。
本文
昔、翁ありけり。
常のことに言へりけるは、「書を読むは貧を招くためなり。」とあながちに言はれけり。
蛍の火かげ、雪の光、隣の壁のこぼれを頼むたぐひ、多かりけり。
都に、浪華(なにわ)に、書籍あまた買ひ積みて持たりといふ人も、黄金千枚を費やせし人は、いと稀なりとや。
茶器などもてあそぶ人は、手に据ゑて見るばかりのものにも、それらの値なるは、いくらも買ひ入れて持ちたるをや。
このためし、今の世のみにあらず、源氏物語に言へる、
家より外に求めたる装束どもの、うち合はず、かたくなしき姿などをも、恥なく、おももち、声づかひ、うべうべしくもてなしつつ、
座に着き並びたる作法よりはじめて、見も知らぬさまどもなりしと書きしは、
おほやけにつかうまつる儒者たちの貧しきさまを見るに、あさましとて言へるなり。
また、「田舎より上る書生は、国を出づるより、人の世話にはなりうち、
写本は盗むもの、書物は借り取りに返さぬものと、まづおぼえて来るなり。」と、ある師の語られし。
現代語訳
昔、とある老人がいたそうです。
いつも口癖として、「書物を読むのは貧乏を招くためのようなものだ」と何度も言っておられました。
蛍の光や雪明かり、隣の家の壁からの割れ目からこぼれた光を頼みにして書物を読むことが多かったそうです。
都で大阪で、書物をたくさん買ってもっているという人も、高額をはたいて買った人は、とても珍しかったのです。
茶器などに興じて楽しむ人は、手に載せて鑑賞するだけの使わない茶器であっても、金貨千枚の値である高価なものを、数えきれないほど、たくさん買い入れて持っているのに。
学者が貧乏であるということの例は今の世の中だけでなく、『源氏物語』で述べられていることの中にもあります。
自分の家以外で借り求めたいろいろの装束が、きちんと合わないで見苦しい姿であることなども恥ずかしく思わず、
表情や声の出し方はまじめくさって振舞いながら、着座して並んでいるしきたりをはじめとして、見たこともないいろいろな様子であったと書いたのは、
朝廷にお仕えする儒学者たちの貧しい様子を見ると、驚きあきれるほどであると憂えて述べているのです。
また、「田舎から都に出てくる学生は、国を出る時から、人の世話になりっぱなしで、写本は盗むもの、書物は借りて、
返さないものだと、まず覚えてくるのである」とある師がお語りになっていたこともよく覚えております。
本を読む者は貧乏に
この話は老人の口癖をそのまま採録したものと考えれば、よくわかります。
短くいえば、本を読む者は貧乏を招くということにつきるのです。
つまり茶器にお金を使っても、書籍に使う人はなぜか少ないのです。
『源氏物語』にも衣装を人から借りて、不格好な儒者の話がでてきます。
さらに田舎から都に出てくる書生は写本は盗むもの、借りた書物は返さないものと思っているようなのです。
これは現代にも通じるのでしょうか。
今ならば、学者たちがさしずめコピーで済ませる風潮ということなのかもしれません。
大学の図書館で借りた本を返さないということは、まさかないでしょう。
どうしても欲しい高い本を、無理して買うということがあるのかどうか。
読書に熱中しすぎる人は、確かに実利とは程遠い暮らしに甘んじることになるのかもしれません。
本を読むのは貧乏を招くもとだという表現は、ある意味で事実を裏側から強調した言い方です。
皮肉に満ちた表現ですね。
しかしあながち無茶な言い方だとも思えません。
学者の暮らしというのは、元来そういうものです。
それでもいいと考える人しか、学問の世界に近づかない方がいいということでしょう。
本文で語られる逸話のもとをご紹介しておきます。
中国の晋の学者、車胤(しゃいん)は家が貧しく、油が買えませんでした。
そこで蛍を集めて本を読んだということです。
孫康(そんこう)は雪明かりで読書をしたとか。
漢の匡衡(きょうこう)は壁の穴から漏れる光を頼りにしたといいます。
秋成は、こういう学者たちのことをどう考えていたのでしょうか。
それが一番知りたいですね。
それでも学ぶことは意義あることだと認識していたのか。
そんな馬鹿な真似をしてまで、学びたい人間を軽蔑したのか。
あなたはどちらだと思いますか。
卑しさに耐えてでも、学ぶことは意味のあることだったのでしょうか。
ぜひ、ご自身で考えてみてください。
これは人の生き方にかかわる、大切な命題であるとも言えます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。