【朋党論・欧陽修】君子と小人の党派を見分けられる君主が天下を治める

朋党論

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は漢文を読みましょう。

人の世に党派はつきものです。

数人集まれば、必ず人は気のあった仲間とつながり合います。

政治の世界では、それがもっとも顕著なのではないでしょうか。

気が合うというより、むしろ互いの利益が最優先なのは、誰もがよく知っているところです。

今回は欧陽修(1007~1072年)の全集『欧陽文忠公集』の中から「朋党論」を取り上げます。

欧陽修は北宋の政治家、学者、文人で北宋文壇の指導者として、大きな足跡を残した人です。

高校でも漢文選択の授業などで扱うことがあります。

入試などにも、時折出題されています。

筆者が時の皇帝仁宗に諫言として発表したのが「朋党論」なのです。

朋党とは仲間同士で派閥を作ることをさします。

中国の宋王朝時代、政治の世界では現代のように官僚同士が派閥を作って争いを繰り返していました。

『朋党論』はそのような派閥争いの中で生まれた欧陽修の上奏文なのです。

政治家は党派をつくることをどう考えればいいのかという、基本的な考え方を彼は皇帝に向かって説明しました。

党派と一口に言うものの、君子の党派と小人の党派とはもともと違うというのです。

それを見分ける力をもつことが、皇帝たるものの役割だという自説を、展開しました。

「君子」と「小人」という表現は、よく使われますね。

すぐれた教養や人格を身につけたものが君子であり、そうでない者を小人と呼んだのです。

本文

臣聞く、朋党の説は、古(いにしへ)より之有り。

惟(ただ)、人君のその君子と小人とを弁ずるを幸(ねが)ふのみ。

大凡(おほよそ)、君子と君子とは、道を同じうするを以て朋と為り、小人と小人とは、利を同じくするを以て朋を為る。

此れ自然の理なり。

然(しか)れども、臣謂(おも)へらく、小人は朋無し、惟だ君子は則(すなわ)ち之有り、と。

其の故(ゆえ)は何ぞや。

小人の好む所のものは祿利なり。

貪る(むさぼる)所のものは財貨なり。

其の利を同じうするの時に当(あた)りて、暫く相党引して以て朋と為るものは偽りなり。

其の利を見て先を争ひ、或ひは利尽(つ)きて交り疏(そ)なるに及びては、則ち反つて相賊害す。

其の兄弟親戚と雖(いえど)も相ひ保つこと能(あた)はず。

故に、臣謂(おも)へらく、小人は朋無し。

其の暫く朋と為る者は偽りなり、と。

君子則ち然らず。

守る所のものは道義、行ふ所のものは忠信、惜しむ所のものは名節なり。

之を以て身を修むれば、則ち道を同じうして相益し、之を以って国に事(つか)ふれば、則ち心を同じうして共に済(な)し、終始一の如し。

此れ君子の朋なり。

故に人君たる者は、但だ当に小人の偽朋を退け、君子の真朋を用ふべし。

則ち天下治まる。

現代語訳

私が聞き及びますところでは、朋党についての考えは、昔からあったということです。

ただ私といたしましては、君主が、その朋党が君子によって組織されているか、小人によって組織されているかを見分けていただきたいと念願するばかりなのです。

およそ君子と君子とは、信ずる道が同じであることによって仲間を作り、小人と小人とは、求める利益が同じであることによって仲間を作ります。

これは当然の道筋です。

しかし私が思うのには、小人には真の仲間というものがありません。

ただ君子だけにあるのです。

それはなぜでしょうか。

小人が好むものは利益であり、貪り求めるものは財貨なのです。

彼らは利益が共通な時は、一時的に手を組んで、互いに助け合い徒党を組みますが、これは見せかけのものでしかありません。

反対に利益が尽きて、互いの付き合いが疎遠になれば、かえって相手に害を与えたり殺しあったりもします。

そうなると、兄弟や親戚でも持ちこたえることが出来ません。

私が思うに、もともと小人には真の仲間というものはなく、彼らが一時的に、仲間のように振る舞うのは偽りなのです。

一方、君子はといえば、そうではありません。

geralt / Pixabay

君子を守るものは道義であり、行うものは忠信であり、惜しむものは名誉や節義なのです。

この徳目によって身を修めれば、道を同じくして助け合い、これによって国に奉仕し、心を同じくして助け合い、終始一貫、変わるところがありません。

これが君子の朋党というものなのです。

だからこそ、人の上に立つ君主は、ひとえに小人の偽りの朋党を退けて、君子の本当の朋党を用いて、天下を治めるべきなのです。

そうすれば、天下は穏やかに治まります。

君主の役割

組織の長になることは、並々の技量では務まりません。

この文章を読んでいると、しみじみそう思います。

ここに示された内容は、いつの時代、どのような場面においても、十分に通用するのではないでしょうか。

一見、勢いのいい弁舌巧みな人の周囲にたくさんの人が集まったとしましょう。

しかしその周辺にいることの利が薄くなれば、あっという間に、人は去っていきます。

党派というものの持っている残忍な現実です。

派閥などと呼ばれる組織もそうですね。

代表がいなくなると、その跡目相続が紛糾し、党派が瓦解することもあります。

それだけ、人の離合集散は日常茶飯事なのです。

だからこそ、欧陽修のこの文章が、いっそう身に沁みます。

器量が小さくて人徳の備わらない人は、道義によって結ばれる友人など持つことはできません。

人格がすぐれた人間のそばにしか、真の友はあらわれないのです。

だからこそ、自分の身を律して生きるということの大切さが、より理解できます。

上に立つ人間は、その違いをきちんと見抜かなければなりません。

ただ数が多いから、そこに君子が集まっているとは限らないのです。

しかし言うは易く行うは難しという言葉があります。

誰でも、この程度のことは知っています。

しかしそれを実践することがどれほど困難なことか。

ポイントはまさにそこにあります。

君主は孤独です。

それはあらゆる組織の長になる人にも言えることです。

最後の判断は全て1人で下さなければなりません。

もちろん、その責任も背負う宿命にあります。

君子を見抜く目をどうしたら身につけることができるのか。

それを考えていかなければならないのです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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