【雁風呂】いつか高座にかけてみたい函館の古い風習からとった心温まる噺

ノート

雁風呂(がんぶろ)

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

道楽で落語を15年ほどやっています。

長い間には、随分たくさんの噺を高座で披露してきました。

もちろん、笑いの多い噺が中心ですが、なかには人情噺と呼ばれるジャンルのものもあります。

親子や夫婦の情を中心とした話のことをそう呼んでいます。

演じていても、主人公の心がみえてくる瞬間があります。

言葉だけの世界だといえば、それまでのことです。

しかし言葉にはやはり魂があります。

「子別れ」などいう噺は特にそうですね。

別れた夫婦が、間に入った子供への愛情から復縁するという噺です。

実に心温まるいい落語です。

いろいろなジャンルのものをやっていると、たまには珍しい噺をしてみたいという気持ちにもなるものです。

そうした部類に入る落語の1つが、ぼくにとっては「雁風呂」ですね。

何度も聞いています。

六代目三遊亭円生のものがもっとも手に入りやすいです。

Youtubeにもあります。

元は上方からきたものとも、講談のネタからだとも言われています。

基本は水戸黄門の諸国漫遊がテーマです。

大坂の町人、二代目淀屋辰五郎がからみます。

全体が3つの章に分かれています。

ポイントはなんといっても「雁風呂」の絵解きをする解説の場面でしょう。

味わいのあるいい噺です。

演じるのは難しい

この落語の難しさの1つは、登場する二代目淀屋辰五郎の使う関西訛りにあります。

大商人の威厳と同時に、幕府によって取り潰された悲哀とを合わせて表現しなければなりません。

それは隠居した水戸光圀を演じるのも同様です。

どちらの話し方にも風格が出ていなければいけません。

円生もこの落語の後のインタビューで、「これは難しい噺なので、軽い気持ちではなかなかできません」と呟いています。

ストーリーを語るだけなら、すぐにでもやれるかもしれません。

しかし噺というのは、それほどに単純なものではないのです。

その底に深い知識と理解が必要になります。

特にこの噺には一双の屏風が登場します。

その中にこの噺の主役である「松と雁」が登場するのです。

これを描いたのは誰かという話になり、光圀は土佐派の将監(しょうげん)光信筆と鑑定します。

そこから一気に話題が展開していくのです。

普通、落語にでてくる長屋住まいの庶民たちが、この噺には登場しません。

そのあたりの雰囲気作りも、この落語の難しさかもしれないのです。

そこで語られる雁の話には、思わず心を動かす人の情けが感じられます。

しかしこの部分を強く主張してはいけません。

ごくさりげなく、こんな風習が函館に残っているという絵解きが、聞いている人の胸に感動をもたらせば、それで十分なのです。

噺の中に登場する紀貫之の歌は、いかにも安っぽく、座興のレベルにとどまります。

歌人、西行の歌を主題にした「西行鼓ヶ滝」と同じ扱いと考えればいいでしょう。

あらすじ

水戸黄門が遠州掛川に着いた時の話です。

昼食をとろうと、町はずれの茶屋に入りました。

そこに偶然あったのが土佐派の将監光信の筆らしい屏風一双でした。

しかしよく見ると、題材が「松に雁金」なのです。

最初に妙な絵だと思いました。

その意味が判らなかったのです。

通常ならば「松に鶴」ならばよくわかるが、と供の家来たちと話をしているところへ、大坂の商人風の男が入ってきます。

その旦那風の男は連れの喜助に良いものを見せてあげると、奥の屏風を指さします。

喜助は直ぐに『将監の雁風呂』と見抜きます。

しかし世間では評判が悪いという噂なのです。

松に鶴なら判るが、松に雁金はないというのがその理由です。

将監は腕に任せて絵空事を描いた、と酷評しているものも多いという話をついしてしまいます。

特に武士にはこの絵の良さがわからない連中が多いと、つい口をすべらせるのです。

隣で聞いていた光圀は、この絵の意味を知りたいと言います。

最初はからかわれていると思った商人も、相手がどうしても知りたがるので説明をする気になりました。

ここからが少し長い絵解きの場面になります。

この部分をどう演じるかによって、噺の出来不出来がガラリと変わってしまうのです。

ここからは落語の台詞をそのまま載せます。

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描いてある松は、函館の浜辺にある俗に一木(ひとき)の松というのやそうです。

日本を離れたはるか遠い所に常磐(ときわ)という国がござりまして、秋になりますと雁金が日本へ渡ってきます。

春になると常磐に帰ります。

雁は、故郷を出る時に柴をくわえて飛び、疲れるとそれを海の上に落としてそれに止まって休みます。

何度も繰り返し、やっとの思いで函館の一木の松まで来ると、松の下へ柴を捨て、春になるまで日本中を飛び歩くのでございます。

戻る時にまた要るだろうと、土地の人が直しておいて、春になると松の下に出しておきます。

これを雁がくわえて常磐の国へ飛び立ち、あとにおびただしい柴が残りますと、その数だけ日本で雁が落ちたのかと憐れんで、土地の者がその柴で風呂を焚きます。

行き来の難渋の者、修行者など、一夜の宿を致しましてその風呂に入れ、何がしかの金を持たせて発たせます。

雁金追善供養のためと、いまだに言い伝えております

函館の雁風呂というのはこれやそうです。

これは半双もので判りにくいのですが、一双ものには函館の天守台がちょっと見え、その下に紀貫之様の歌があって、

秋は来て春帰りゆく雁(かりがね)の羽がい休めぬ函館の松でございましたか。

これが『函館の雁風呂』と申すものの由来です。

大団円

ここからなぜ大坂の町人淀屋辰五郎が取りつぶしあったのかという説明が始まります。

親が存命中に、柳沢様に三千両をご用立てしたものの、そのままで返してくれないので、これから屋敷に伺うところだと説明します。

昔日ならともあれ、今の淀屋ではお返しいただかないと困るので、お屋敷に伺うところです」。

事情を知った黄門はここではじめて自分の名を告げ、美濃守への書状をしたためます。

『雁風呂』の話を聞かせてもらったお礼にと」というワケです。

判が押され、立派な証拠書類になりました。

これを持って美濃守殿に行き、もし下げ渡しがない時は水戸上屋敷に持参すれば早速金子御下げ渡しになる。

EliasSch / Pixabay

三千両の御目録であるといって渡されます。

ここからサゲになりますが、元々の噺には何もなかったようです。

講談にもありません。

おそらく三遊亭円生がいろいろと考えて、そこにつけ足したものと思われます。

サゲなどむしろなくてもいいような、幹の太い噺です。

いつかやってはみたいですが、いつのことになりますやら、見当もつきません。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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