【贅沢の条件】情報化社会と物語の間には「はるけさ」と「おののき」が潜む

小論文

贅沢の条件

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回のテーマは「情報化社会」です。

情報が世界を駆け回るスピードが速くなっています。

地球のどこかで起こった事件が、瞬時に世界中の人の知るところとなります。

そこにどのよう意味があるのかという追体験をする余裕などありません。

情報は津波のように次から次へと押し寄せてくるのです。

その中を現代人は生きていかなければなりません。

それがビジネス社会です。

好むと好まざるとにかかわらず、そうした時代を生きているのです。

筆者の山田登世子氏はフランス文学者でエッセイストです。

彼女の感性はそれを黙って見ていることを許しませんでした。

何らかのアクションが必要だと直感したのです。

それがなんであるのか。

そこにこの問題のポイントがあります。

キーワードは何でしょうか。

意識しながら課題文を読んでください。

設問は以下の通りです。

この文章を読んで、あなたが現代の情報化社会を生きていくうえで、最も大切だと思うことを800字で書きなさいというものです。

このテーマは今の状況そのものを示したものです。

その意味で、あなたが現代をどう捉えているのかということを赤裸々に現わしてしまうことにもなります。

読解力と認識力を表現する結果にもなるのです。

課題文

忙しいわたしたちのビジネス社会から失われて久しいもの、それは「はるけさ」である。

遠い昔に起源をもち、悠久の時を経て現在に運ばれてくる。

そんなゆったりした時の流れこそ、「贅沢の条件」なのだが、情報社会を刻むタイムはそんな悠長な時間ではない。

機械生産の世界を刻む時は、誰にでもわかる機械的時間である。

マエストロや職人たちの手仕事の時代が終わって機械生産が到来したとき、終わってしまったのは職人生産だけではなかった。

かれらの「手仕事」と共にあった「手仕事的時間」もまたいつの間にか失われてしまったのである。

そう語るのはベンヤミンである。

ベンヤミンは「手仕事」は「物語」と密接に結びついていると言う。

手仕事をするゆるい時間の流れは、物語を語り、その語りに耳をかたむける時間にぴったりと呼応していたのである。(中略)

ビジネス社会の到来ととともに、物語はすたれゆき、代わって登場したのは「情報」である。

教会の鐘の音とデジタル時計のタイム表示が全くちがうように、物語と情報も何から何まで逆の性質をそなえている。

まず、情報は瞬時に遠くの出来事を伝える。

ニュースは「はるけさ」を奪うのである。

遠い過去の出来事も、メディアにとりあげられて番組化されると、「はるけさ」を失って、視聴者に「身近な」出来事になってしまう。

メディアの情報は、すべてをわたしたちの「近く」に運んでくるのである。

メディア社会とは「近さ」の専制にほかならない。

手や耳や目といったわたしたちの身体状態とかかわりなく、スイッチ一つでわたしたちはすべてのものを「近く」にひきよせてしまう。

ケータイ電話は、この「近さ」の専制の完成だといってもいいだろう。

それらの情報メディアの特性は「近さ」と「親近感」である。

ちょうど、物語というメディアの特性が「遠さ」であり、「権威」であったのと対照的に、物語はあらゆる意味で近づきがたい「はるけさ」と一つのものだったのだ。(中略)

メディアのあたえる情報と物語のもう一つのちがいは、前者がわたしたちの身体的経験を養わないということである。

テレビやインターネットをとおして、わたしたちは全世界のニュースを知ることができるが、その知識は、わたしたちにいかなる経験的な知恵もあたえてはくれない。

だから、知恵を得たければマニュアルに頼らざるをえない。

ところが、物語は、わたしたちの経験を養い知恵を授ける。

それはじっと耳を澄まして聴くわたしたちの経験を養い、知恵を授ける。

それはじっと耳を澄まして聴くわたしたちのどこか深いところで記憶されて、教訓的な知恵を培ってくれるのである。

キーワードを把握する

この課題文を読んで、文章の流れは理解できたでしょうか。

最初にキーワードを探す作業をしましょう。

いくつかありますね。

「手仕事的時間」「物語」「情報」「はるけさ」「近さの専制」「贅沢の条件」などです。

手仕事をしていた時代、ゆるい時間の流れが物語を作っていたものの、それが情報化社会を迎えて不可能になったというものです。

物語とはそれを語る時間にゆったりと耳を傾けることのできる、心のゆとりのことです。

その世界に浸りこむだけの、柔らかな時間とでもいった方がいいのでしょうか。

はるかな祖先の時代から語りつがれてきた物語を、口伝えに聞いてきたのです。

彼らが語る言葉には権威がありました。

その背後には経験に裏打ちされた実感があったからです。

遠い場所でおこった事柄が「はるけさ」を伴って語られたのです。

それが一気に情報化時代を迎え、崩れ去りました、

神話も権威もなにもありません。

あらゆることが身近な出来事になったことは、間違いありません。

しかし以前には存在していた「贅沢な時間」はもうそこにはありません。

なんの経験的な知恵も与えてくれない、扁平な情報の塊に過ぎなくなったのです。

結論をどこへ

この小論文の結論に、YesNoのデジタル的な解決を導くのは難しいかもしれません。

もちろん、筆者の論点を認め、まさにその通りだとする解法の一方で、そんなことはない、

今も充実した時間は十分に確保されているという論点も可能です。

ただしあまりにNoの論点をを強く書きすぎると、情報化時代の知恵をではどのように得ているのかという内容がやや曖昧になってしまう怖れがあります。

やはり知恵と知識の分別をはっきりさせた方が、内容的には理解しやすいでしょう。

テレビやインターネットから離れて、こころの安寧を得るためにはどうしたらいいのか。

それを自分なりにまとめることが大切なのです。

1つの道は断捨離です。

もちろん、完全に情報を切断してしまうことは不可能です。

だとしたら、意識的に遠ざかることの重要性を説いてはどうでしょうか。

デジタルでない情報に触れることの大切さも、そこでは説明することもできます。

物語の持つ悠久の時間との交感、といったテーマで結ぶのもいいでしょう。

音楽、美術などの芸術が持つ香りに意識的に触れることで、こころの内側に巣くう情報の束を一瞬でも空にする工夫はどうでしょうか。

健康のため、外気にふれることが大切であることは言うまでもありません。

それと同じように、情報の外にある空気に触れる必要がありそうです。

別の言葉でいえば、権威といってもいいかもしれません。

大きく言えば「物語」ですね。

そういう結論にうまく自分の経験を書き込みながらまとめていければ、かなり説得力のある文章になるものと思われます。

いずれにしても、練習をしてください。

何通りも書いて、添削してもらうことを勧めます。

自分の言葉でテーマを紡ぎ出す方法を学びましょう。

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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