主語と述語の対応
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
入試まであとどれくらいですか。
早く推薦入試を受験する人もいるでしょうね。
もちろん、一般入試を視線の向こう側に置きながら、とにかくトライしてみようという受験生もいるに違いありません。
指定校推薦がとれれば、それも1つの道です。
あるいは総合型選抜と呼ばれるAO入試に挑む人もいるでしょう。
9月には結果が出る大学もあります。
正確な情報を集めてください。
これらのタイプの入試に、必ずついて回るのが小論文と面接です。
特に小論文は書けそうで書けない厄介な試験です。
最近はネットの隆盛のせいか、読書量が明らかに減っています。
文書をまとめるのが苦手だという生徒が多いのです。
実際に書いたものを読むと、主語と述語の対応ができていない答案を多く見かけます。
もう1つは語彙不足ですね。
これは決定的です。
国語力のなさを露呈しています。
ではどうしたらいいのか。
結論を言います。
特効薬はありません。
あなたが受験する時点で書ける文章が、あなたの実力そのものなのです。
冷たい言い方に聞こえるかもしれません。
しかし事実です。
上手な書き手になりたかったら、その日まで必死に学び続けるしかないのです。
どこから始めるのか
毎年、たくさんの問題をみます。
高校と大学の問題では内容もかなり違います。
しかしそこに共通しているのは、受験生の資質を見抜きたいとする採点者の意志です。
高校や大学に入学した後、どこまで伸びるのか。
その確信を得たいのです。
それにはどうするのか。
ズバリ、常識の逆をつく問題を出します。
誰もが知っているだろうことの裏を問うのです。
毎年のように感心するのは、都立西高校の問題です。
これはテーマ型小論文の典型例です。
短文の中にさまざまな意味が込められています。
それをどこまで見抜き、新しい視点を出せるか。
過去問を少し見てみましょう。
全て問題の指示は同じです。
次のことばについて、あなたが感じ、考えたことを600以内で述べなさい。(50分)
令和4年度 「人間らしさ」という言葉は、「人間らしさ」が失われようとするとき、あるいは損なわれるような事態に陥ったときに口にされる。 畑中章宏
令和3年度 ドアをあけると風が私を待っていた。だから私は、黙って風に自分を預けたのだ……。黒井千次
令和2年度「わかりやすさ」の罠(わな)にはまらないようにするためには、やはり私たち社会を構成するひとりひとりが、「知る力」をもっと鍛えなければなりません。 池上彰
平成31年度 数について何かを発見するためには、数を転がして、ころころと手のひらで弄(もてあそ)ぶことが一番重要なんです。藤原正彦
平成30年度 問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。 岡潔
平成29年度 世界は『のっぺらぼう』である。 西江雅之
平成28年度 人生には二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。 アルベルト・アインシュタイン
平成27年度 自分では前を見ているつもりでも、実際はバックミラーを見ている。 マーシャル・マクルーハン
平成26年度 私たちはしばしば、できないものを見つけることによって、できることを発見する。 サミュエル・スマイルズ
ミロのヴィーナスの逆説
清岡卓行の代表的なエッセイを知らない人はいないでしょうね。
まだ授業で習っていない生徒もいるかもしれません。
教科書に載っています。
読んでみてください。
このブログにも該当する内容があります。
リンクを貼っておきましょう。
彼はミロのヴィーナスをルーブル美術館で見た時、どういう感想を持ったのでしょうか。
なぜこんなに感動するのかを考え続けたのです。
その結論はなんだったのか。
ヴィーナスの手が失われているからだというのが、その時の結論でした。
通常は五体満足であることが基本です。
しかし腕がないという「特異点」の存在。
別の言葉でいえばキーワードを瞬時に彼はつかみました。
そこからこの名エッセイが生まれたのです。
『失われた時を求めて』というのはプルーストの長編小説のタイトルです。
それと同じ視点で「失われたもの」をみつけようとした清岡氏の詩人としての眼があなたにありますか。
自分の中にある疑問、発見が「それならば失われて美しいものが他にあるのだろうか」と考えることは可能でしょう。
そこから自分の思考の微かな震えを言葉で紡ぎ取っていくのです。
常識に囚われていたら、ユニークな文章はかけません。
細く狭い階段を下りていくように、自分の中の手がかりにむけて、灯りを照らすのです。
いい文章には、必ずこれに似た息遣いがあります。
名作と呼ばれるものは皆、そうですね。
立場をかえる
西高校の平成30年度の問題に次のようなのがあります。
問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですねという、数学者・岡潔の言葉です。
あなたはどこからこの短文を読み解きますか。
数学者は当然のことながら、なかなか解決しない問題を抱えています。
有名な問題などは数百年間もかけて何人もの数学者が挑んだ結果、やっと解けたというものもあるのです。
『新潮の100冊』に載っている『フェルマーの定理』(サイモン・シン)もその1つですね。
問題は一見単純ですが、誰にも解けなかったのです。
これもリンクを貼っておきます。
その解に達するまでの鬼気迫る様子は、この本を読めばよくわかります。
ところで問題を出さないで答えを出すとはどういうことですか。
通常ならばありえません。
しかし本当の数学者は自分で問題をつくるのです。
そこが出発点です。
第三者が作った問題を解いているうちは本当の数学者ではありません。
どういう意味かわかりますか。
真に問いを発するものにしか、真の答えは得られないということです。
自分の身にこのテーマを投げかけてみてください。
グレゴール・ザムザはある朝、目が覚めたら巨大な虫に変身していました。
『山月記』では李徴という主人公が虎にかわりました。
そして友人の袁傪に自分の苦境を伝えるのです。
立場を逆転させた時、何が見えるのか。
そこまでしなければ見えなかったものとは何か。
その視点がとても重要なのです。
自分の葛藤に執着すること。
最後まで諦めないこと。
そうした数々の営為が、この短い言葉を生み出したのでしょうね。
そこまで辿り着いてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。