【ブラックジャック・手塚治虫】人間の命と生きがいとの関係【小論文】

学び

ブラックジャック

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は漫画家の手塚治虫のエッセイを読みます。

タイトルは『ガラスの地球を救え』です。

かつて名古屋大学の教育学部に出題された小論文の問題です。

課題文は「ブラックジャックのジレンマ」という題名の章から抜き出されています。

簡単にいえば、彼の悩みはたった1つです。

それは延命策を施すのが、医者の使命なのかということにつきます。

ブラックジャックの医療技術をもってすれば、高齢患者の命を救うことができたとしましょう。

その結果として、患者は余生を幸福に過ごせるのかということなのです。

生きがいを失い自殺を図った老人の命を救うこともしました。

しかしその後で、深く悩みます。

医学の進歩は、日々人の命を長らえる方向で進んでいきます。

しかしそれが本当に幸福なことであるのか。

高齢者たちの置かれた現在の姿は、決して生きやすいとはいえません。

むしろ生きがいのない老人を大量生産してしまう結果になっているのかもしれません。

安楽死などやガンの告知など、医療にはさまざまな問題がからみあっています。

その全てをときほぐしてみると、生き残ったとして、その後の人生が果たして幸福なものであるといえるのかどうかという点に尽きます。

この問題を解決しない限り、ブラックジャックのジレンマは解けないのです。

まさに現代の医学が直面しているテーマと呼んでさしつかえないでしょう。

問題は以下の通りです。

あなたはこの文章を読んで、これからの医学はどうあるべきだと考えますか。

600字内で書きなさいというものです。

課題文の1部分をここに載せます。

キーワードを探りながら、じっくりと読んでください。

課題文

医者は果たして人間に延命策を施すことが使命なのか。

老衰した高齢患者の命を救うことによって、その患者の余生を果たして幸福にできるだろうか。

ブラックジャックは自問自答し、激しいジレンマに陥ります。

人間はただ命が助かって寿命が延びただけでは、「生きている」とは言えません。

若い人はもちろんのこと、老人にもいわば「生きがい」がなくては生きる気力が湧いてこない。

せっかく医療の進歩によって生き延びることができたとしても、かえって辛い思いや苦しい思いをさせることになりかねません。

日本のみならず、老人に対する社会の目は、かなり冷たいものがあるようです。

もうお役御免のやっかい者のように考えている青年や壮年層の見方は、とんでもない思い上がりであり、傲慢です。(中略)

年老いるということは、病気にかかりやすくなるし、身体に障害を持つようになるということでもあります。

若いころには自在に動いた手や足が、自分の思いのままに動かないつらさ、情けなさ。(中略)

体が不自由になり年老いる。

それはほかでもない、自分自身の姿です。

他人のためではありません。

自分の将来のためにも、もっと老人や不自由な体の人々が生きやすい社会が考えられるはずです。(中略)

truthseeker08 / Pixabay

老人は生き延びましたが、もはや老人には生きがいがないのです。

これで人助けをしたことになるのかどうか。(中略)

また別のある老人の物語では、その老人は腕のいい大工さんで、ブラックジャックの手術室と病室を増築することに執念を燃やしています。

しかし、ついに中途で病に倒れます。

彼は白血病で、広島で原爆にやられていたのでした。

ブラックジャックはその老人を前にしながら、まだ学校を出たばかりで、原爆という巨大な敵をねじ伏せることができなかったのです。

ここでまたブラックジャックは医療とは何か、人間の幸福とは何かという問いを繰り返すのです。

インフォームド・コンセント

ここに示された医療者の立場については、よく語られるものです。

特別な内容ではありません。

ただし「延命」すればそれでいいというような荒っぽい論理の立て方には少し無理があります

以前なら、それも可能でした。

しかし今はケアという考え方が浸透しつつあります。

どのように命を救い、その後に続けるのかということが重要です。

その際、「インフォームド・コンセント」という論点も大切になります。

現在の医学では最重要語句ですね。

AbsolutVision / Pixabay

日本語に訳すと「説明と同意」ということです。

医療の方向をきちんと説明し、患者の同意がとれない治療は許されません。

かつて患者は無条件で医者の診断を鵜呑みにしました。

多少の不安があっても、それをはねのけることができなかったのです。

その結果、医療過誤が発生する事例もたくさん起こりました。

今は患者の自己決定能力を大切にする時代です。

無闇に延命治療を行うことも許されません。

安楽死の問題にも直結しています。

どの立場で書くか

ポイントはこの問題をどの視点から書くかということです。

大雑把にいえば、2つの立場にわかれるでしょう。

医療の目的はどこにあるのかということです。

1 患者の命を救うことが最重要だとする立場。

2 患者の命を救えばそれでいいわけではないという立場。

2は1の立場を否定しているワケではありません。

基本は患者の命を救うということが初期の目標であるということは忘れてはなりません。

どちらの立場を強く打ち出すかで随分と印象が変わりますね。

1の場合、医師はどんな病気に対しても、最大級の延命治療を行うべきだとします。

そうでなければ、現代の医学の限界を突破することは不可能になるからです。

第1の目標が達成されなければ、その後のことは起こりえない。

どんなことがあっても患者の命を救うという大前提を忘れてはならないということなのです。

そういわれてみると、最もですね。

ただし2の立場からみると、治る可能性もないのに延命治療を施すことは、患者のためになっているのだろうかという根本的な疑念があります。

stevepb / Pixabay

最悪の場合、尊厳死という考え方も取らざるを得ないとするのです。

これは安楽死とは微妙に異なります。

日本の場合はどうか。

安楽死は認めていません。

ただし場合によって、尊厳死は許されています。

この両者はどこが違うのか。

これも実は微妙です。

議論の余地がまだあるといった方がいいでしょう。

ガイドラインはできつつあります。

しかし大変に難しい問題であるのも事実なのです。

今後の医療の方向は現在もこの2つの中で揺れ動いています。

そのことを冷静に受け止め、自分の立場がどちらにより傾いているのかを見極めながら、論点をまとめてください。

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今後も高齢化社会のテーマとあわせて、出題される可能性があります。

十分に考察を深めておきましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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