【小論文・バリアフリーとユニバーサルデザイン】関係と差に着目する

小論文

バリアフリー

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はバリアフリーについて考えてみます。

同時にユニバーサルデザインについても学びます。

突然ですが、民主主義の究極の目標とはなんでしょうか。

難しい問いですね。

一言では答えられません。

しかし頭を捻ったら、こんな答えが出てきました。

全ての人が平等に社会生活を不自由なく送れることというのはどうですか。

健康で文化的という表現が入ってもいいですね。

この論点の根底にはノーマライゼーションの考え方があります。

すべての人が同じ水準の生活を送れるように環境づくりをしていく取り組みが大切だということなのです。

本当に豊かな社会とは何か。

障害のある人や高齢者が健常者と同じように普通の生活を当たり前に送れるようになる社会のことです。

生きがいを最大に発揮できる社会の実現ですね。

そのためにバリアフリーという考え方が必要になるのです。

バリアとは障害をさします。

バリアフリーとは日常生活の中で障害になりそうなものを取り除くことを意味します。

一方でユニバーサルデザインとは誰にでも暮らしやすい社会を設計することが目的です。

意味と理念を実例をあげて論じていくことがここでのポイントでしょう。

両者の違い

バリアフリーとユニバーサルデザインは、発案されたきっかけや背景は大きく違います。

しかし事業や整備された形は実によく似ています。

混同されやすいのです。

もう1度、バリアフリーとユニバーサルデザインの違いについて考えてみましょう。

ユニバーサルデザインは、障害者だけが特別待遇を受けるということに対するアンチテーゼから始まりました。

最初から多くの人に使いやすいものを提供するという設計思想から始まったのです。

それに対してバリアフリーはあくまでも障害者や高齢者などの生活弱者のための方法です。

この両者の差をきちんと認識していないと、本質が見えなくなってしまいます。

近年、このテーマが小論文の課題に出ることが多くなりました。

場合によっては写真や図版とともに出題されています。

どの視点から課題文が出題されるかによって、かなり内容が異なるので十分に注意してください。

ここでは1つだけ例をあげて考えてみましょう。

よく目につくのが段差の問題ですね。

歩道の段差には思わぬ障壁があります。

高齢者が歩いている姿をみると、ほんのわずかな段差でも歩くことが大変になっていることがよくわかります。

あるいはベビーカーなどを押している母親が、歩道の段差で苦労している風景などもみかけます。

ベビーカーを押してもなかなか先へ進まないのです。

また建物玄関前の段差についてはどうでしょうか。

玄関前に必要に応じてスロープを付けるのはバリアフリーの考え方です。

一方、ユニバーサルデザインでは、設計時からごく当たり前にスロープを計画し作りあげることとなります。

完成した段階での形は全く同じです。

しかし基本的な概念が微妙に違います。

これが混同しやすい理由なのかもしれません。

どちらが先かの論争に過ぎないではないかという発想も当然あるでしよう。

ところがその事実をどこまで当然視してきたかという経緯が違うのです。

多様性の重視

「バリアフリー」はもともとは建築用語です。

「バリア(障壁)」を「フリー(のぞく)」という意味です。

人間は厄介な生き物で、心の中にさまざまなバリアを持っています。

その1つ1つを乗り除いていくことは想像以上に大変です。

高齢者、障害者などの社会参加を困難にしている社会的、制度的、心理的なバリアについても考えなくてはなりません。

ただ階段にスロープをつければそれで済むというレベルではありません。

むしろ心の問題の方が難しいかもしれません。

私たちが暮らす社会には多様な人々が住んでいます。

価値観や能力も人それぞれ違います。

年齢や性別、国籍、仕事、受けてきた教育や宗教、育った環境なども様々です。

この中で最も大切なことは何か。

キーワードになるのが多数の人がより快適に住める社会という考え方です。

民主主義は多様性を大切にしなくてはなりません。

それが世界の流れなのです。

しかし残念なことに現実は反対です。

効率化を進めた結果、多数を占める人に合わせて社会がつくられてしまっているのです。

大多数の人たちにとっては不便でもなんでもないことが、少数の人たちにとってバリアとして存在しています。

障害のない人にとっては当たり前のことが、障害者にとっては高く厚い壁になるのです。

ユニバーサルデザインの思想

それをなんとかしたいというのがユニバーサルデザインの思想です。

もちろんバリアフリーの考え方にも同じ論点があります。

両者がお互いの足りないところを補い合って進むというのが今後の流れになるでしょうね。

現在はどちらが先か後かではなくなりつつあります。

それでは、具体的にバリアとはどんなものなのでしょうか。

例えば物理的なバリアはどうでしょうか。

例えば、路上の放置自転車、急こう配の通路、ホームと電車の隙間や段差などです。

最近では駅のホームにも少しづつガードがつけられるようになりました。

しかし先日の電車火災のような人為的な事故の時、停車位置をずらすと、ホームへ簡単に降りられないという問題も発生しています。

あるいはエレベーターのボタンが高い位置にあると、車いすを使っている人はボタンが押せません。

その他、制度上のバリアもあります。

障害があることを理由に受験や免許などの取得が困難な状況も見受けられます。

cuncon / Pixabay

また車内アナウンスはあるとしても、聴覚に障害のある人には無意味です。

さらに1番厄介なのが偏見や差別でしょう。

考えてみれば、これが最も手間のかかるバリアかもしれません。

「心のバリアフリー」という言葉がよく使われるようになりました。

しかし実際は見て見ぬフリというのが横行しています。

あなたの周囲を見回してみてください。

そこにはさまざまなバリアがあるはずです。

それを1つ1つ除去していく。

その先にそれをあたりまえのこととして、捉えるユニバーサルデザインの考え方が生まれてくるのです。

ノーマライゼーションと言葉でいうのは簡単です。

しかしそれを現実のものにするには、長い時間が必要です。

社会の規範意識を育てていくために最善の方法はなんであるのか。

自分なりに少し考えてみてください。

それが小論文を書く時の説得力の根拠になります。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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