【知の巨人・立花隆】秘書日記に綴られた意外なジャーナリストの素顔

2003年刊行

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

知の巨人、立花隆が80歳で亡くなりました。

すごい仕事をした人です。

真のジャーナリストというのはこういう人のことを言うんでしょうね。

誰にも真似することのできない仕事ぶりでした。

ただ見上げているしかなかったというのが本当のところです。

とにかくテリトリーが広いのです。

これだけウィングを伸ばせば、当然雑になる分野が出てくるのは間違いありません。

しかしそれがなかったのです。

執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたっています。

ただ書いただけではありません。

多くの著書がベストセラーになりました。

ぼくも随分いろいろと読ませてもらいました。

『中核VS革マル』『日本共産党の研究』『アメリカ性革命報告』『宇宙からの帰還』『こんな本を読んできた』『脳死』『二十歳のころ』『インターネット探検』…。

思い出しただけでも次々とタイトルが出てきます。

どれも面白かったです。

彼の経歴についてはあちこちに関連の記事があります。

なんといっても1974年10月発売の『文藝春秋』11月特別号でしょうね。

これが立花隆を世に出しました。

「田中角栄研究〜その金脈と人脈」は大きな反響を呼び、首相退陣のきっかけを作ったと言われています。

裁判記録への執念

田中角栄が逮捕された後は東京地裁で同事件の公判を欠かさず傍聴しました。

一審判決まで『朝日ジャーナル』誌に傍聴記を連載したのです。

ロッキード事件の「丸紅ルート」、「全日空ルート」についての詳細な取材の仕方は、後にジャーナリストを目指す人たちの目標になりました。

1976年には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載しました。

共産党側は組織的なキャンペーンを展開して反論し、大論争に発展したのです。

ここで彼の鋭い分析能力がさらに研ぎ澄まされたと言われています。

その後はご存知の通りです。

関心が次から次へと広がっていきました。

宇宙からサル学、さらにガンの構造、脳の仕組み。

1995年にはスタジオジブリの長編アニメーション作品『耳をすませば』で主人公の父親役を演じたりもしました。

朴訥な語り口がなかなかのものでしたね。

この年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。

夫人が末期がんに侵されていることを知ったのと同時に、ガンへの関心も深まったといわれています。

まもなく彼女が亡くなり、つらい日々を送りながら、勤務先「東大」の歴史からその今日的課題に至るまで鋭いメスを入れました。

アシスタント募集

この頃、新聞に掲載された中にほんの小さな求人広告があったのです。

それが「立花隆のアシスタント募集」でした。

その中から選ばれた「3代目秘書」の書いた本が今回のテーマなのです。

盲目的に立花隆を描写した本ではありません。

非常に冷静に落ち着いた筆致で彼の横顔を描いています。

だから面白いのです。

『立花隆秘書日記】がその本のタイトルです。

著者の名前は佐々木千賀子さん。

彼女が秘書の職にあったのは、93年5月から98年末にかけてです。

田中角栄の死や阪神大震災、地下鉄サリン事件など、日本社会の根本的な価値観を問う出
来事が立て続けに起きた時期です。

立花隆が最も精力的に活躍していた時といったらいいのかもしれません。

原稿の締め切りに追われる多忙な毎日と東大研究所の客員教授の仕事。

立花隆はイヤな顔もせず、喜んで両輪を回し続けました。

そのパワーは驚異的なものだったのです。

佐々木さんは評論家の日常に何を見たのでしょうか。

1番面白いのは彼を取り巻く編集者などとの交流を描いたところです。

彼の日常を描写した本に『立花隆のすべて』があります。

この本は立花自身の書下ろしです。

当然自分の目に映る自分の姿です。

佐々木さんの本とはおのずから違った角度になっています。

仕事ぶり

佐々木さんの書いた本は立花隆を礼賛する著作ではありません。

知の巨人の日常と知的生産の技術のヒミツに迫るという副題の通り、興味深いことがたくさん書いてあります。

1993年から98年までの5年間、立花隆事務所(通称・ネコビル)に勤めたという名物秘書が、激動の日々を活写したのです。

一番面白かったのは採用試験の部分ですね。

実に500人の応募者がありました。

その中から最終数名にまでにしぼり、最後に電話応対の試験をしたそうです。

とにかくどうしても立花隆に会わせて欲しいという1人のしつこいファンの電話をいかに撃退するのかというのが、最後の試練でした。

それだけでもかなりユニークです。

どんな撃退方法が1番効果的なのでしょう。

後でわかったことですが、これは立花自身が仕組んだやらせの芝居でした

つまり大嘘をついたのです。

採用後にパーティを開いた時、このことを彼自身が参加者に公開して大笑いになったといいます。

最後まで佐々木さんと競った有力候補との差は何かという話も楽しいです。

その人の方がキャリアがもっと上だったそうです。

しかし、そんな偉い人をここで雇っては申し訳ないというエピソードも披露されています。

立花隆という人の持っている自然な大きさを感じますね。

ちなみにこの最終候補者は大変に有名な翻訳家だったそうです。

彼女は全てのキャリアを投げ打ってもネコビルで働きたいという話だったとか。

佐々木さんは本当に首の皮1枚の差で採用されたのです。

しかし試験はそれだけではありませんでした。

洋書の背表紙から、本のタイトルを書き出すなどという難しい内容のものもありました。

その時、秘書の仕事はとにかく整理することと見つけたりと思ったそうです。

普段は不機嫌そうな顔をしているが、けっして機嫌がわるいわけではないので、きちんと用件は伝えて欲しいなどと言う、彼の横顔にも愛嬌があります。

それまで住んでいたところからはとうていネコビルまでは通えず、すぐ近くのマンションに数日後に引っ越した話も楽しいです。

本の整理の仕方、さらには多くの編集者とのつきあい、また「耳をすませば」というアニ
メの吹き替えの話が持ち込まれるなど、話題には事欠きません。

立花隆は独特の水戸弁を話します。

育ったのが茨城県の水戸市なのです。

それが木訥とした雰囲気を醸し出していたのです。

結婚する時も奥さんに約束してもらったことは、いくら本を買っても文句を言わないことという一点だけだったとか。

事実、神田で本を買ったがお金がないので、後で振り込んで欲しいなどという内容が多かったそうです。

その後東大の客員教授となり、仕事は多忙を極めていきます。

学生にはめろめろに甘い立花をフォローするのは、もっぱらアシスタントの仕事でした。

今の若者は豊かな時代に生きているからでしょう。

借りたものをすぐに持っていってしまう。

催促するまで持ってこない。

時間を守らない。

忘れ物をよくする。

はさみ一つでも元の場所に戻さない。

立花隆が甘やかして言えないことを、彼女はきちんと学生に伝え続けました。

この本を読んでいるだけで、なんとなく愉快な気分になってきます。

知の巨人の横顔がそこに髣髴としてくるからでしょうね。

令和3年、彼は忽然とこの世から消えてしまいました。

3万冊の本を読み、100冊の本を書いた評論家が亡くなったのです。

心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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