歌物語
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は1年生で最初に習う伊勢物語の一節を勉強しましょう。
「東下り」の段とこの「筒井筒」は最も有名な段です。
必ず習います。
伊勢物語は在原業平を主人公にした形でまとめられた平安時代の歌物語です。
和歌が本文中に幾つも散りばめられています。
作品の真骨頂はまさに歌にあります。
すぐれた和歌を存分に味わってください。
今回の話は男女の間の微妙な愛情の行方を追いかけたものです。
さっそく本文を読んでみましょう。
本文
昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、大人になりにければ
、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ、女はこの男をと思ひ
つつ、親のあはすれども聞かでなむありける。
さて、この隣の男のもとより、かくなむ、
筒井筒井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに
女、返し、
比べ来し振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰か上ぐべき
など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。
さて、年ごろ経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともに言ふかひなくて
あらむやはとて、河内の国、高安の郡に、行き通ふ所出できにけり。
さりけれど、このもとの女、悪しと思へる気色もなくて、出だしやりければ、男、異心あ
りてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、
この女、いとよう化粧じて、うち眺めて、
風吹けば沖つ白波たつた山 夜半にや君がひとり越ゆらむ
と詠みけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。
まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づ
から飯匙取りて、笥子のうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて行かずなりにけり。
さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
君があたり見つつを居らむ生駒山 雲な隠しそ雨は降るともと言ひて見出だすに、からう
じて、大和人、「来む。」と言へり。
喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、
君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば 頼まぬものの恋ひつつぞ経る
現代語訳
昔、田舎を回って生計を立てていた人の子どもたちが、井戸の辺りに出て遊んでおりました。
やがて大人になったので、男も女も互いに恥ずかしがっていたけれど、男はこの女をぜひ
妻にしようと思い、女はこの男を夫にと思い、親が他の人と結婚させようとしたものの承
知しないでいたのです。
さて、この隣の男のもとから、こんなことを言ってきました。
筒形に掘り下げた井戸の囲いと高さを測り比べた私の背丈も、囲いの高さを過ぎてしまったようです、あなたを見ないでいるうちに。
女の、返歌、
あなたと長さを比べ合ってきた私の振り分け髪も肩を過ぎてしまいました。
あなたでなくて誰がこの私の髪を結い上げてくれるのでしょうか。
あなた以外にはいないのです。
などと何度も言い合って、とうとうかねての念願どおり結婚をしたのです。
何年かたつうちに、女は、親が死んで、生活の手段がなくなってしまいました。
男は夫婦一緒に貧しくて惨めな状態でいられようかということで、河内の国、高安の郡に、通う女ができてしまったのです。
しかし、このもとの女性は、不快に思っている素振りもなくて、男を新しい女のもとへ送
り出してやったので、男は、女も別の男の心を寄せていてこのように嫌な顔もしないので
あろうかと疑わしく思いました。
そこで庭の植え込みの中に隠れて座り、河内へ行ったふりをして見ていたのです。
するとこの女性は、たいそう念入りに化粧をして、もの思いにふけってぼんやり遠くを眺
めながら、
風が吹くと沖の白波が立つ、そのたつという名の竜田山を、この夜中に私の夫がひとりで越えているのでしょうか
という歌を詠みました。
それを聞いて、男はこの上もなくいとしいと思って、河内へも行かなくなってしまいました。
ごくまれにあの高安の女の所へ来てみると、初めは奥ゆかしく取り繕っていたけれど、今
では気を許して、自分の手でしゃもじを取って、ご飯を盛る器に盛りつけるのを見て、嫌
になって行かなくなってしまったのです。
男が来なくなったので、高安の女は、大和の方を見やって、あなたのいらっしゃる辺りを見続けています。
だから生駒山を雲よ隠さないでください、たとえ雨が降ったとしても。
と詠んで外を見やると、ようやく大和の男が、「それでは行こう」と言いました。
高安の女は喜んで待ちましたが、何度も訪れのないまま過ぎてしまったのです。
あなたが来てくれると言う夜のたびに待っていたけれど、むなしく過ぎてしまいました。
頼みにはしていないものの、恋しい月日が過ぎていきます。
と詠んだけれども、男はとうとう通わなくなってしまったのです。
2人の関係
この物語は、お互いにひかれあっていた幼馴染が、大きくなって結婚をしていく様、そして結婚してからの2人の関係を描いたものです。
当時は通い婚といって、男女は一緒に住まず、男性が妻の家に通っていたのです。
男性の食事や生活の世話は奥さんの実家が全て行うのでした。
つまり女性の側が金銭的な支えをするシステムだったのです。
ただし正妻に限っては一緒に住むのが普通でした。
一夫多妻制であったことを念頭に読むとわかりやすいでしょう。
結婚してしばらくした時、女の親が亡くなり、生活ができなくなっていく様子が描かれていますね。
まさにこういう感じの結婚生活だったのです。
男はなんとか食べていく算段を考えなくてはなりません。
そこで高安に別の女性を訪ねていくようになったのです。
これは男に働く気持ちがないからダメなのだということではありません。
これがごくあたりまえの結婚の形でした。
男は最後にどちらの女性を選んだのでしょうか。
この作品は世阿弥によってとりあげられました。
能の『井筒』の元になっています。
もう1つの「東下り」の段は「杜若」(かきつばた)になったのです。
どちらも大変有名です。
能では「過ぎにけらしな」ではなく「生(お)ひにけらしな」と謡います。
この「生ひ」は成長して背丈が高くなったという意味です。
しかし能では「生ひ」ではなく「老い」てしまったという言葉にかけて謡われます。
それでは『筒井筒』に出てくる「女」の人はどちらかがより魅力的なのでしょうか。
やはり幼なじみの女性の方でしょうか。
夫が別に女性を持ったということを知っています。
それでも嫉妬を覚えなかったのでしょうか。
今とは倫理感が違うとはいえ、やはり愉快ではなかったに違いありません。
夫は明らかに妻を疑っています。
別に男ができたのかもしれないと考えているのです。
ここはいつも議論になるところです。
彼女は全てを見抜いていて、あえて何も言わず、夫が出かけると無事を一心に願ったとすれば大した度量の広さです。
あるいは庭先に隠れている夫の存在を知りながら、あえて祈ったふりをしたのか。
また、ただ一途に夫の無事を祈ったのか。
どのようにでも解釈できます。
この部分をどう理解するかで、この作品の深さが格段に違ってしまうのです。
あなたはどう思いますか。
彼女はきちんと化粧をして、夫の無事を祈願しました。
男の気持ちを揺さぶったものは何なのでしょうか。
生徒はいろいろな解釈をしてくれました。
男としては、旅の無事を祈ってくれた妻に心が動いて当然ですね。
ここはどのようにも読めます。
昔も今も男女の愛情の表現は千差万別です。
一方の高安の女性はいつの間にか、恥じらいに欠けてしまったのかもしれません。
それもこれもあわせて、じっくりと味わってみてください。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。