黄金律
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は入試小論文からテーマを引き出しました。
2つの文章を読んで考えたことを800字でまとめなさいという問題です。
あなたは「利他」という言葉をご存知ですか。
道徳律の基本とも言われます。
「利己的」という言葉はよく使いますが、それに比べると「利他的」という表現は日常会話にもあまり登場しません。
わかりやすく言えば、自己の利益や幸福を犠牲にしてでも、他人の幸福や利益のために尽くすこと、またはその様子をさします。
一般的には、他者の苦境を助けるために労力や金銭、精神的な支援を行う行為を意味するのです。
「利他的」という表現のポイントはどこにあるのでしょうか。
基本は自己犠牲の精神を強調することにあります。
自分自身の利益や安全を後回しにして、他者を優先する態度や行動です。
さらに言えば、相手にプラスとなるような「良いこと」を提供することを目的とします。
自分だけが良ければいいと考える「利己的」な考え方の対極にある行動と考えればいいのではないでしょうか。

わかりやすく言えば、献身的、自己犠牲的といった類語が挙げられます。
今までは道徳律の上で、「利他」というのは完全にプラスの思想でした。
派生語としては「喜捨」などという言葉もありますね。
他者のために自分の持っているものを喜んで寄付することを意味します。
ものを差し出すことが、それだけで「善」であるという宗教上の考え方です。
タイではあらゆる男性が、生涯に一度は僧侶になるそうです。
毎朝、町中を歩いて、食べ物などをもらったりするのです。
人にものを与えることが、「喜び」であるという思想からきている行為です。
ものをもらう僧侶は常に堂々としています。
「利他」ということについて、今回の入試に出た文章を読んでみましょう。
課題文Ⅰ
「汝が他人にしてもらいたいと思うことを、汝も他人に対してなせ」という黄金律。
これは、あなたと私のあいだで、何を大切だと思っているか、何を素晴らしいものと見なしているか、何を醜いと感じるか、何を心地よいと感じるかを共有している場合にのみ、利他となります。
この道徳律(黄金律)は、「あなたと私は似た存在である」「あなたと私は同じような存在である」という前提がなければ機能しません。
現代に生きる僕らは、大切にしているものが一人ひとりズレている。
それが多様性の時代である。
この認識からしか、利他は届かないと言えるでしょう。

そうでなければ、それは利他の押し付けであり、ありがた迷惑であり、正義の強制であり、時には道徳の暴走へと至るでしょう。
だとすれば、現代という多様性の時代における黄金律は、「その他者が大切にしているものを尊重する」というものになるのではないでしょうか。
そして、その私ならざるあなたが大切にしているものは、私の目には見えない。
しかし、もし利他があり得るとしたら、それは次のような定義になります。
利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先することである。
(近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』)
課題文Ⅱ
安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態です。
要するに、相手の行動が自分のコントロール下に置かれていると感じている。
それに対して、信頼とは、相手が想定外の行動をとるかもしれないこと、それによって自分が不利益を被るかもしれないことを前提としています。
つまり「社会的不確実性」が存在する。
にもかかわらず、それでもなお、相手はひどい行動をとらないだろうと信じること。
これが信頼です。
つまり信頼するとき、人は相手の自律性を尊重し、支配するのではなくゆだねているのです。
これがないと、ついつい自分の価値観を押しつけてしまい、結果的に相手のためにならない、というすれ違いが起こる。
相手の力を信じることは、利他にとって絶対的に必要なことです。
利他的な行動には、本質的に「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という「私の思い」が含まれています。
重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。
思いは思い込みです。
そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかは分からない。
「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。

つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないかと思います。
やってみて、相手が実際にどう思うかは分からない。
分からないけど、それでもやってみる。
この不確実性を意識していない利他は、押しつけであり、ひどい場合には暴力になります。
さきほど、信頼は、相手が想定外の行動をとるかもしれないという前提に立っている、と指摘しました。
「聞く」とは、この想定できていなかった相手の行動が秘めている、積極的な可能性を引き出すことでもあります。
「思っていたのと違った」ではなく「そんなやり方もあるのか」と、むしろこちらの評価軸がずれるような経験。
他者の潜在的な可能性に耳を傾けることである、という意味で、利他の本質は他者をケアすることなのではないか、と私は考えています。
ケアが他者への気づかいであるかぎり、そこは必ず、意外性があります。
自分の計画どおりに進む利他は押しつけに傾きがちですが、ケアとしての利他は、大小さまざまなよき計画外の出来事へと開かれている。
この意味で、よき利他には、必ずこの「他者の発見」があります。
さらに考えを進めてみるならば、よき利他には必ず「自分が変わること」が含まれている、ということになるでしょう。
相手と関わる前と関わった後で自分がまったく変わっていなければ、その利他は一方的である可能性が高い。
「他者の発見」は「自分の変化」の裏返しにほかなりません。
(伊藤亜紗「「うつわ」的利他」
他者の発見
この課題文を読んで、どう感じましたか。
今まで「利他」は無条件にいいことだと思っていたのではないですか。
自分にとっても他者にとっても理想的な行為だったはずです。
しかしそれがあまりに単純な発想であることを痛感しました。
「汝が他人にしてもらいたいことを、汝も他人に対してなせ」という黄金律が、多様性の時代においては「他者が大切にしているものを尊重する」という形に変化すると課題文は論じています。
考えてみれば、「利他」は自分の価値観を押し付ける暴走ともいえなくはないからです。
真の利他には「信頼」が不可欠です。
相手の自律性を尊重し、結果をコントロールしようとしない態度が求められているからです。
なぜそこまで話が複雑になってしまったのか。
それは現代が多様性を重視する社会だからです。

基本的に自分の価値観で他者を測るという論理だけでは先に進めない段階にきてしまったのです。
そのためには、相手の自律性を尊重し、信頼することが不可欠です。
自分の価値観を押し付けることがあってはなりません。
想像力を最大限に発揮することが必要なのです。
複雑な時代になりました。
それと同時に自分を発見しなければなりません。
そして変わる勇気を持たなくてはいけないのです。
これが一番難しいかもしれません。
「何を大切にしているか」「何を素晴らしいと見なすか」と価値観は確実に変容しています。
簡単にいえば、ありがた迷惑のレベルから抜け出すことですね。
不確実性を意識しない「利他」に意味はありません。
「多様性」という言葉で表現してしまうのは簡単です。
しかしそれを実行することのなんと難しいことか。
その内側の構造をていねいに見ていくことが、ここでは必要になります。
具体的な例があれば、それをきっかけにして、話題を展開することも可能です。
ぜひ、800字で書いてみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。