「旅人かへらず・西脇順三郎」超現実主義的感覚の果てに得た「幻影の人」とは

ノート

幻影の人と女

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は日本の詩壇でも特異な位置にある詩人、西脇順三郎について考えてみましょう。

西脇順三郎は1894年に新潟に生まれました。

詩人であり英文学者でもあります。

第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物です。

生前に何度かノーベル文学賞の候補に挙がったこともあります。

渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけました。

その後日本に戻り詩集『Ambarvalia』(あんばるばりあ)(1933年)を刊行します。

多くの詩集の中で、『旅人かへらず』(1947年)が最も多くの人に読まれました。

ここで彼は内面に潜むもう一人の人間を「幻影の人」と名付け追求しました。

詩はかなり長いものです。

全文を読むと、西脇順三郎の内面にあった世界像が垣間見えます。

168の章から構成されたこの詩には、「幻影の人と女」と題した序文があります。

「幻影の人」とはどういう意味なのでしょうか。

特に「女」という表現には豊饒な香りの予感がします。

生命の神秘を彷彿とさせるのです。

詩を読んでいると「淋しさ」という表現が何度も繰り返されているのに気がつきます。

はかないものが次々と登場し、それだけにかえって美しさが増すといえばいいのでしょうか。

生命の儚さを、言葉によって刻みつけようとしているかのようです。

最初と最後の章は特に思弁的ですね。

日本人の漂白を標榜する姿勢が色濃くにじんでいるようにも見えます。

1人の旅人が武蔵野の自然の中を歩きながら、見て感じた風景を描き出しています。

若山牧水の持つ甘さよりも、むしろ西行、芭蕉に通じる漂白感です。

時にギリシャの太陽を願ったりするものの、基調になるトーンは日本の自然そのものです。

色濃く無常感を漂わせた言葉の流れは、現代人にも抵抗なく読み取れます。

敗戦後に発表されたことを考えると、荒地の風景を彷彿とさせます。

全てを読み切るのは大変なので、代表的な前文と詩の一部を紹介しましょう。

旅人かへらず

はしがき 

自分を分解してみると、自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覚の世界、肉体の世界がある。

これ等は大体理知の世界と自然の世界の二つに分けられる。

次に自分の中に種々の人間がひそんでいる。

先づ近代人と原始人がいる。

前者は近代の科学哲学宗教文芸によつて表現されている。

また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民俗学等に表現されている。

ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。

これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出来ない割り切れない人間がいる。

これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考へる。(後略)

一 

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考えよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考える水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

窓に
うす明りのつく
人の世の淋しき

自然の世の淋しき
睡眠の淋しき

かたい庭

やぶがらし

梅の樹脂
生命の脂
恋愛の脂
苦(にが)き古木のとがり
夏の宵の蓮の筆に
光りをののく星空に
情を写して
憂しき思ひの手紙を書く
永劫の思ひ残る

りんどう/りんだうの花咲く家の
窓から首を出して
まゆをひそめた女房の
何事か思ひに沈む
欅の葉の散つてくる小路の
奥に住める
ひとの淋しき

(中略)

一六八

永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず

「ぬらした」という表現

詩集『Ambarvalia』(あんばるばりあ)に収められた「ギリシア的抒情詩」も読んでみましょう。

「コリコスの歌」「天気」「カプリの牧人」「雨」「菫」「太陽」「手」「眼」「皿」「栗の葉」「ガラス杯」「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」から成り立っています。
ここでは「天気」と「雨」を選びました。

「文学国語」の高校教科書にも所収されています。

ギリシャ的抒情詩

天気

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした

「旅人かへらず」の表現を何度も読み、その後で「ギリシア的抒情詩」を読み込むと「ぬらした」という言葉の繰り返しが、何を言いたかったのかが、大変気になります。

詩の余韻

広がりが最後に「舌」をぬらすという表現までもつれこむのが大変にユニークです。

「雨」がそれぞれの「存在」を新しくし、輝きを増すという事実を表現した詩だと理解することもできます。

ある評論家によれば、「旅人かへらず」の非常に湿った表現が、ギリシャ的抒情詩では俄かに乾いてしまったかのようです。

ギリシャの持つドライな風土が雨に濡れるたびに、新鮮な風景に変化していくさまは、不思議な味わいをもっています。

情景の1つ1つが濡れるたびに表情を新しくし、過去の汚れを流していきます。

ギリシャ的な風土を連想すると、雨そのものも神の恩寵に似た自然現象だということがよくわかるはずです。

この機会にぜひ、西脇順三郎の詩を味わってみてください。

不思議な余韻にひたれると思います。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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