「義家、兵法を学ぶ・古今著聞集」匡房卿の教えを守り伏兵を見破って勝利した

義家の器量

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は兵法の話をします。

源義家は、平安時代中期から後期にかけての武将です。

八幡太郎の通称でも知られ、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たります。

比叡山等の強訴の頻発に際し、白河天皇の行幸の護衛として活躍しました。

後に陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を鎮定しましたが、朝廷はこれを私闘と見なして行賞を行わなかったのです。

そこで義家は資材をもって将士をねぎらい、結果として東国に源氏の基礎を築いたと言われています。

その義家が宇治殿(藤原頼通)に合戦の話をしたときに、漢学者で歌人である大江匡房が義家は兵法を知らないと呟きました。

それを聞いた義家はなにか理由があるはずと彼に会い、その場で教えを請うことにしたのです。

後の合戦で義家は匡房の教えを守り、敵の伏兵をも破って勝利しました。

その具体的な内容を紹介しましょう。

『古今著問集』は鎌倉初期までの700余話を、勅撰和歌集の形式にならって20巻に集大成した説話集です。

編者は橘成季(なりすえ)。

成立は鎌倉時代中期の1254年です。

貴族社会から世俗的な内容のものまで多彩な内容を持っています。

本文

同じ朝臣、十二年の合戦の後、宇治殿へ参りて、戦ひの間の物語申しけるを、匡房卿よくよく聞きて、

「器量はかしこき武者なれども、なほ軍(いくさ)の道をば知らぬ」

と独り言に言はれけるを、義家の郎等聞きて、「けやけきことをのたまふ人かな」と思ひたりけり。

さるほどに、江帥(こうそつ)出でられけるに、やがて義家も出でけるに、郎等、

「かかることをこそのたまひつれ」と語りければ、「さだめてやうあらん」と言ひて、車に乗られける所へ進み寄りて、会見せられけり。

やがて弟子になりて、それより常に詣でて、学問せられけり。

その後、永保の合戦の時、金沢の城を攻めけるに、一行(ひとつら)の雁飛の去りて、刈田の面に降りんとしけるが、にはかに驚きて、行(つら)を乱りて飛び帰りけるを、将軍怪しみて、轡(くつばみ)を押さへて、

「先年、江帥の教へ給へることあり。

『それ軍、野に伏す時は、飛雁行を破る』。

この野に必ず敵伏したるべし。

搦手(からめて)を回すべき」よし、下知せらるれば、手を分かちて、三方をまく時、案のごとく三百余騎を隠し置きたりけり。

両陣乱れあひて戦ふことかぎりなし。

されども、かねてさとりぬることなれば、将軍の軍、勝つに乗りて、武衡等が軍、破れにけり。

「江帥の一言なからましかば、危なからまし」とぞ言はれける。

(注) 江帥(こうそつ) 大江匡房(まさふさ)の別称。

匡房にはさまざまな逸話が残っています。

関白・藤原頼通(よりみち)が平等院を創建するために宇治を訪問しました。

ところが大門が北を向いていたのです。

そこで頼通は匡房に問い訊ねました。

匡房は即座に、天竺の那蘭陀寺、震旦の西明寺、本朝の六波羅蜜寺は門が北に向いていると回答し、頼通を驚嘆させたといいます。

現代語訳

同じ義家朝臣が、前九年後三年の役の後、宇治殿(頼通)のところへ参上して戦さのことをお話し申しあげたのを、大江匡房卿がじっくり聞き、

「この者は力量は立派な武者だけれども、やはり戦法というものを知らないな」と独り言を言いました。

それを義家の家来たちが聞いて、妙なことをはっきりおっしゃる人だと思ったそうです。

そうするうちに、匡房が出ていかれたところ、すぐに義家も出ると、家来が、

「匡房卿がこんなことをおっしゃっていた」と話したところ、義家は 「そのように言うのにはきっと何かわけがあるのだろう」と言って、匡房卿が牛車に乗られるところへ進み寄って挨拶をなさいました

そのまま義家は匡房の弟子になり、それ以来いつも匡房卿のもとへ参上し、兵法を学ばれました。

この後、永保の合戦(後三年の役)の折、義家が金沢の城を攻めたときに、列をなした雁の一群が飛び去って、刈田の上に降りようとしたが、 突然、何かに驚いて列を崩して飛び帰ったのを、

将軍義家が不思議に思い馬の轡(くつわ)を押さえて言うには、

「先年、匡房殿がお教えになったことがある。そもそも軍兵が、野に隠れて待ち伏せしているときは、飛ぶ雁は列を乱す。この野原には必ず敵が隠れて待ち伏せしているはずだ」と。

そこで義家が「背後からの軍勢を回せ」と命令されたので、 軍勢が手分けして左右背後から隠れている敵を包囲したところ、思ったとおり三百余騎が隠れていました。

義家軍と武衡軍の両軍が乱戦になって戦うことは、この上ありませんでした。

しかし、義家軍は武衡軍が隠れていることを前もって知っていたので戦さに勝ち、武衡等の軍は破れてしまいました。

義家は「匡房卿の一言がもしなかったならば、こちらが危なかっただろう」と、あとで呟いたといいます。

孫子の兵法

孫子の兵法は現代にも通用する大切な教えです。

大江匡房が義家に教えたのは、まさにこの兵法でした。

その中の「行軍」の中に次の一節があります。

衆樹の動くは来たるなり、衆草の障(しょう)多きは疑(ぎ)なり

鳥の起(た)つは伏なり、獣の駭(おどろ)くは覆(ふ)なり

意味は次の通りです。

木々が動いているのは敵襲の兆しである。

草むらに仕掛けがあるのは、こちらに疑いを持たせて、進ませまいとしているのだ。

鳥が不意に飛び立つのは、伏兵がいる証拠である

獣が驚いて走り出すのは、大部隊の伏兵がいるのである。

遠くから眺めて、鹿などが何かに驚いて急に走り出すのは敵の大部隊がそこにいる証拠だ。
それを見破ることができなければ大きな損害となる。

後三年の役で金沢城(安部貞任の居城)を攻めた時、一列に飛んでいた鴈が、稲を刈りとった田圃におりようとしてして、にわかに驚き、列を乱して飛び帰ったのを義家は怪しく思いました。

馬の轡を抑え音を立てずに攻めこみ勝利を勝ち得たのです。

孫子の兵法を学んでいなければ、そのまま伏兵にあい、討ち死にしていたかもしれません。

大江匡房は知においてはすぐれていたものの、その性格にはさまざまな問題があったと言われています。

人間のいきざまは難しいものです。

古今著問集には『大江匡房非道の物を各一艘に積む事』という段があります。

匡房が太宰権師としての任を終え上られる時、正当な報酬として手に入れた物を舟一艘に積みました。

道理に外れた手段で手に入れた物を、もう一艘に積んで上ってきたのです。

しかし道理の舟は途中で海に沈んでしまい、非道の舟は無事に着くことができたという話です。

彼はいつも次のように説いていました

「この世はもう末世になっている、人間は真っ直ぐで正直なだけでは駄目なのだ」

生きるということは誠に難しいということを実証したような話です。

私たちはここから、なにを教訓として受け取ればいいのでしょうか。

しっかりと考えてみなければなりません。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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