【情報化社会】世界を最後に支配するものは数字だけだという怖ろしい真実

ノート

数字が全て

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は数字について考えてみましょう。

あなたの周囲をちょっと見まわしてみてください。

数字以外に何があるのか。

あらゆるものが数字がらみなのです。

不安になりませんか。

物価、賃金、年金、税金、学費、ローンなどなど、新聞にもネットにも数字が踊っています。

経済記事から数字が消えたら、全く意味が通じなくなります。

基本は統計ですね。

今日の株の値段は昨日に比べて何%上がったのか、下がったのか。

それは1月前と比べてどうか。

あるいはアメリカ市場の変動とどういう関係にあるのか。

為替の変動はどの程度なのか。

全てが数字の列挙です。

コンピュータの性能が上がるにつれ、以前よりも分析がより精緻になりました。

時間単位ではなく、秒単位で、次々と数値が変化していきます。

利率のわずかな差が、莫大な利潤を生む時代です。

ぼんやりしている暇はないに違いありません。

これは財政や金融だけの問題ではありません。

政治にもすぐ反映します。

政権の支持率がほんのわずか下がっただけで、すぐに政変が起こりかねない現実があるのです。

ことほどさように、我々の日常生活は数字に縛られています。

情報化社会の行きつく先は、これからどうなるのか。

少し考えてみましょう。

参考になる文章がありました。

フランスの数学者、オリヴィエ・レイのものです。

本文

聖書には「はじめに言葉があった」という語句があって、これは世界が存在する前に言葉があったということであるが その伝でいけば、おそらく、「最後はすべてが数字になる」。

これまでは言葉で表されていたものが、数字で表されるようになるのだ。

人々は個人の経験では社会に対応できなくなった時、数字を判断の基準にしようとする。

社会の変化が激しく、複雑になりすぎた時、あるいはこれまでのやり方ではうまくいかなくなった時に、

それは単に世界を数字で測るというだけではなく、数字が個人のいちばん核になる部分まで支配するというところにまで及ぶ。

近年広まりつつあるいわゆる「自己定量化」である。

そうなると、例えば、自分が健康かどうかは個人的な経験による感覚で判断するものでなく、

健康機器の出した数値によって判断するものになる。

具体的な例をあげよう。

一日中、パソコンの前に座っているホワイトカラーのサラリーマンは、まず「自分が健康ではない」ということを健康機器の数値によって知る。

そしてそれを改善するためにジョギングを行うのだが、その時、

このサラリーマンはジョギングの効果や、それが健康に与えた影響を数字で把握しようとする。

すなわち、ウェアラブル端末を身につけて、スマートフォンの「アプリ」を使うことで、

ストライドや心拍数、走行距離や消費エネルギーを計測する。

また、そうしないと走ったという実感も持てないし、健康のために役立っているとも思えない。

つまりこうした形で個人は数字化されてしまうのである。

情報化社会

健康のためのアプリの話は、耳に痛いですね。

まさに自分も同じだと感じます。

健康診断の結果をみて、慌てて万歩計のアプリをスーインストールします。

今日は何歩歩いたと調べる始末なのです。

最近のは、それでどこまで行けたのかという具体的な地名まで教えてくれます。

距離が長ければ、達成感もあります。

完全に数字に踊らされているのかもしれません。

中高生なら、学校の成績が気になりますよね。

当然の話です。

受験生なら、なおのことでしょう。

模擬試験でどれくらいの得点が取れたのか。

その成績なら、どこの学校へ入学できるのか。

同じレベルの受験生たちはどこの学校を志望しているのか。

ここ数年の倍率はどうか。

さらに今の状態で試験直前までにどの程度の得点力が身につくと予想できるか。

その結果、合否の可能性は何%程度あるのか。

全てが一瞬で表になって出てきます。

見ているだけで怖くなってきます。

あなたが受験する予定の学校のデータも、非常に詳しい統計をもとに算出されているのです。

今はある程度のデータまでなら、個人のスマホでも読み取れます。

ここで少し考える必要があります。

つまり統計を重視することの意味です。

確かに示された数字はかなりの確率で、合否を決定づけるものかもしれません。

しかしそれが全ての現実を反映しているわけではないということです。

統計が独り歩きをすることの怖さを、同時に知らなくてはいけません。

人間には、数字だけでははかることのできない「波動」もあるのです。

数字に対する過信

いよいよパリ・オリンピックが開幕します。

今朝もバドミントンのダブルスに出る選手の話を、テレビで報じていました。

その選手は勝つことに対するモチベーションが、前回のオリンピックの時のようにはでなくなったと述懐していました。

昨日も柔道の選手が全く同じことを呟いていたのです。

2回もオリンピックに続けて出られるなどということは、通常なかなかありえないことです。

だからこそ、期待をそこなわないように頑張らなければならないと考えるのが、普通でしょう。

しかしそれがなぜかできない。

勝負に対する力が湧いてこないというのです。

コーチや協会は出場をさせるにあたって、あらゆる方法を考えます。

その中の1つの方法が完全休養です。

数か月間全く練習を休むのです。

自分と向き合う時間を作ってもらうためです。

メンタルの見直しということでしょうか。

その結果、自分の立ち位置が見えてきたといいます。

勝てなくてもそれは仕方がないと思えるところまできたというのです。

自分に正直になれたということなのかもしれません。

けっして、数字では表現できない「気力の世界」の話です。

実力はあっても「気」が衰退すれば、そこで選手生命は終わってしまうものなのです。

多様で複雑な現実の中を生きている人間は、数字だけでは判断できない要素を多分に持っています。

現実を数字で正確に把握することが、可能だという人もいるでしょう。

しかし人間はそれほど単純ではありません。

選挙でよく言われる「風」と呼ばれる現象もその1つです。

一過性の力を無視することはできません。

人間は冷静な統計だけでは判断できない、不思議な生き物なのです。

数字にふりまわされることなく、冷静に判断を重ねていくことの重要性が、以前よりも確実に増していると感じます。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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