排除ベンチの置かれる街
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
昨日(5月25日)の朝日新聞を読みながら、かなり以前のことを思い出していました。
タイトルは『排除ベンチの置かれる街』です。
新宿区立公園に置かれたベンチが座りにくく、「意地悪ベンチ」と呼ばれているというSNSの話題でした。
確かに写真を見ると、座りにくそうです。
真ん中が盛り上がっていて、ちょうどかまぼこのような形しています。
おまけに背もたれがないので、くつろぐこともできません。
この記事を読みながら、新宿駅の地下通路のことを思い出しました。
設置されたのは、1990年代のことです。
都庁へ向かう通路をホームレスが占拠したことがありました。
それがあまりにも見苦しいというので、彼らを強制的に退去させた後、不思議な格好の丸い筒のような、竹を斜めに切った形の造形物を並べたのです。
その間に人が入れない程度の間隔をあけて、設置しました。
今はどうなっているのでしょうか。
最近都庁への地下通路を歩かないので、確かなことはわかりません。
どこの街にも似たような例がありますね。
渋谷マークシティ前の分離帯、大森駅前の歩道橋下も同じです。
この記事のすぐそばには、横須賀市の例も挙げられていました。
ネットで調べてみると、確かにこれでは横になることができません。
突起物があちこちにあって、無理です。
貧困の実態を隠してしまいたいとする自治体の思惑も、からんでいると思わざるを得ません。
もちろん、社会福祉の制度が以前よりもうまく行きわたっているという側面があるのでしょう。
ホームレスの人が少なくなったのかもしれません。
しかし単純には断定できそうもないのです。
そこにあるのが「黒い羊」の論理です。
黒い羊
「排除の論理」がつよく働く背景には「黒い羊」効果が必ずあります。
自分たちと違う論理で生きている人間を容認しないという考え方です。
社会的な集団の中では、しばしば起こることです。
本来、集団の一員でありながら、なじめずにいる者を集団の仲間と認めないという論理です。
必ず、「厄介者」いうレッテルが貼られます。
圧倒的に多い白い羊たちの中に、一頭でも黒い羊がいるとよく目立ちますね。
当然のことながら、白い羊たちにとっては目障りです。
なんとか排除をしたい。
しかし面と向かっていじめをし、集団から追い出すのには幾分かの抵抗があります。
そこでじわじわと彼らを追い込んで、目の前から消してしまうという方法をとります。
逆にいえば、黒い羊が一頭いると、その他の白い(いわゆる善良な)羊たちには弱い連帯感が生まれます。
仲間意識が自然に強まるのです。
黒い羊は、そのことによってさらに低い評価を受けます。
大きな集団には当然、同調圧力がかかります。
それはそれで苦しいものですが、中に入っていれば、沈黙していても集団が守ってくれます。
その代わり、異質なものに対しては非情なまでの排他性を発揮するのです。
その姿勢は残酷なものです。
善人を装っていた集団が、マスとして活動したときの怖さは歴史が多く教えてくれています。
ナチスによるホロコーストなどは最もいい例なのではないでしょうか。
意地悪なアート
もう1度、意地悪なベンチの話にテーマを戻します。
いくつかの写真をみてみてください。
ネットには、こんな椅子をだれが売っているのかという疑問を投げかけたくなるようなものがかなり載っています。
つまり悪意が全くないという例がたくさんあるのです。
バブルのころ、税収が豊かだった自治体は、あちこちの公園にオブジェを設置しました。
かなり高額だったものが多いのです。
どのような経緯で選ばれたのか。
意見は分かれるところですが、無駄だとしか言えないような例も多々ありますね。
さてベンチの話です。
新宿区の公園課によれば、最初に設置されたのは1996年のことだとか。
背もたれがないアーチ型のものにしたのは、長時間の滞留をなんとかしたいという苦肉の策だったようです。
ベンチの必要性は感じつつ、しかし長居はしてほしくないという本音がよく見えます。
必ずしもホームレスの人を排除するためのものという認識だけでは、無理があるのかもしれません。
場所が新宿という特殊な環境だけに、仕方がないという側面もあるとは考えられます。
新宿駅の地下通路からホームレスの人たちが追い出された経緯を知っている人も、今となってはそう多くはないのかもしれません。
都市部の治安対策とのギリギリの妥協点が、排除のためのアートなのです。
しかし見ているとやはり物悲しくなりますね。
お前たちは黒い羊だと断定する人間がいたことに、間違いはないのです。
ゴミ箱が消えた
最近は駅にゴミ箱がありませんね。
本当に減りました。
表面上の名目はテロ対策防止です。
「ご理解とご協力」という柔らかな表現の背後には、別の意味での「不寛容」が流れています。
公共空間は本来誰にでも平等に開かれているものでなければなりません。
しかし明らかに黒い羊には、閉ざされています。
私たちもその予備軍なのです。
おまえたちが間口を狭くしたのだと指摘されれば、何も言えなくなる論理です。
排除の論理は必ず「自己責任」とセットになって襲いかかってきます。
SDGsの掛け声は、だれにとってもやさしいものです。
しかしその裏で取り残さざるを得ない人がいることを、明確にしています。
この論点を進めていくと、誰が黒い羊を探し、彼らにやさしい援助をして自立への契機をみつけるのかという大きな問題に立ち至ります。
行政でしょうか。
政策の管理者は予算の論理をつねに振りかざします。
全ての人にあたたかくやさしい言葉をかけ続けることは、不可能だと呟きます。
財政的な援助が必要であることは、言うまでもありません。
行政は自分で立ち上がれる人間だけに、座りやすいベンチを提供しようとするのです。
酔ってベンチを汚す人のために、わざわざ清掃人を雇うことはできないという論理です。
解決への道のりがいかに厳しいものかは、理解していただけたでしょうか。
行政の福祉部門と民間のNPOが路上生活者への支援を広げ、成功しているところもあります。
しかし必ずしもうまくいっていないところも多いのです。
あなたはこの問題をどのように考えますか。
排除アートと福祉の問題に絡む小論文は、あまり出題されたことがありません。
今年は可能性が大いにありますね。
1度、自分自身の問題として考えてみてください。
白い羊だと思っていたら、いつの間にか黒い羊の刻印をおされてしまう危険性に満ちているのが、現代そのものなのです。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。