批評の言葉をためる
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はことばの深淵を探ります。
言葉くらい大切なものはないと信じているからです。
人間は生まれたその時点から、日々肉体的に成長していきますね。
それと同時に言葉を獲得していくのです。
自分の周囲に新しい世界を切り拓いていく行為と、リンクしています。
外の世界に対する批判も、次第に増していくのです。
成長は批判の芽生えと同義だといってもいいのかもしれません。
問題はそこから先の段階でしょう。
ここでは青年に達する前段階のあたりを、イメージしてください。
批判を単にそのままの形でとどめておいたのでは、何も先に進みません。
客観的な「批評」にまで昇華させなければならないのです。
「批評の言葉」をためる作業を始める必要があります。
多くの人はそれを無自覚なまま、繰り返し作業を行っています。
しかし本来は意識して、より遠くまで届く言葉を獲得しなければならないのです。
作家の井上ひさしがよく語っていた表現がありますね。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」がそれです。
聞いたことがあるでしょうか。
彼は演劇の本質を常に追い続けていました。
主宰していた劇団、こまつ座のパンフレットに、綴った言葉だと言われています。
「おもしろく」の部分は人によってさまざまな受け止め方ができると思います。
しかしそれ以前の部分に反対する人はいないのではないでしょうか。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」の部分は批評の言葉を手にするときの最も大切な要点を示しています。
中学3年の教科書に、哲学者、竹田青嗣氏の文章がありました。
基本的な問題にきちんと向き合ってまとめられたものです。
本文を読み、そこからテーマをさらに深掘りしてみます。
本文
言葉のキャッチボールの中で批評する言葉をためるとは、どういうことだろうか。
例えば、ある音楽を聞いて心が動かされる。
それを相手に伝えたいという気持ちが強くなればなるほど、私たちは、何とかよい言葉を探そうと努力するだろう。
しかしそのとき、相手は君の言い分に賛成せず、むしろ君の批評に反論するかもしれない。
だが、それに対して、君はまた反論することもできる。
信頼できる人間と何かを批評し合うというのは、そういう言葉の真率なキャッチボールをすることだ。
それぞれの感じ方をよく聴き取りながら、互いに主張したり、反論したり、納得したりすることである。
実は、こうした言葉のキャッチボールの中で、私たちは「批評する言葉」をためているのだ。
つまり、相手に届く良い言葉を探す努力と、相手の言い分をくみ取れるよい耳の力を育てる努力をしているのである。
批評ができるようになると、友達同士の関係も変わってくる。
単に趣味の合うもの同士ではなく、趣味の違いを受け入れ合えるような関係になるのだ。
友達どうしで「批評」を交わし合うこと、それは単に互いに自分の考えを表現し合うということではない。
互いに「自己ルール」を言葉によって交換し合うということである。
「自己ルール」とは、その人がそれまで生きてきた中で身につけている「よい・悪い」の判断や美意識の価値判断の根拠のことだ。
大切なのは、いろいろなものを批評しあうことで、友達と自分の「自己ルール」を確かめあい、認め合い、そして調整し合っていくということなのである。
そこに人間どうしのコミュニケーションの内実がある。
実は、こうした批評し合う関係によってしか、人は自分の「自己ルール」を理解することはできない。
私たちは誰でも、自分なりの「自己ルール」を、いわば感受性のメガネとしてかけている。
これは長い時間をかけて形成されたものだ。
だから、自分の感受性のメガネがたとえ歪んでいたとしても、自分一人では決してわからない。
自分のメガネの見え方が適切かどうかに気づくのは、自分のものの見方と他人のものの見方とを比べて、その違いや偏りに気づくときだけである。
感受性を育てる
批評する言葉をためていくためには、どうすればいいのでしょうか。
この文章が小論文の課題文だったと考えてみてください。
キーワードは「批評の言葉をためる」です。
あなた自身の経験に照らしてその内容を800字で書きなさいという設問がでたら、どのように解答しますか。
毎年、言葉の問題は小論文によく出題されます。
高校、大学を通じて、批評に耐える言葉をもつということは、非常に大切なことです。
国語力があるかないかは、あらゆる教科の勉強に関わるからです。
数学などそれほど深い関係ではないと思われる場合にも、分析力、批評力はやはり重要なのです。
あなた自身の経験の中で、これはといえるようなものはありますか。
試みにここでAIとの関連を提示することも可能です。
最近、話題になっている「チャットGPT」などの生成系AIと、あなたが手にするはずの批評力との関係はどうでしょう。
単純にすべてをAIに任せてしまった場合のことを考えてみてください。
作り上げられた文章が、あなたの批評力以上の能力を持っていたとしたら、どうしますか。
大きな間違いや認識の過誤があった場合、どのような修正を試みますか。
いずれも今日的な大問題です。
生成系AIがいかにもそれらしい文章を作り出したとき、それが真に批評に耐えうる言葉をもっているかどうかを、どのようにしてチェックするのかというテーマです。
当然それまでに批評し合い、感受性を高めていくという作業も必要でしょう。
できるだけたくさんの優れた文章や小説に親しむことも大切です。
あるいは、他者の言葉や遣い方をよく聴く耳をもつことも必要です。
俯瞰する力
ここからの作業はあなた自身の経験に左右されるでしょう。
多くの重ねた経験は十分な意味を持ちます。
しかし最終的に必要なのは、「俯瞰する力」ではないでしょうか。
本当に生成系AIが作り出す内容をチェックするためには、単純な事実関係をおさえる能力だけでは不十分なのです。
そこにはある種の直感が必要になります。
全体を俯瞰して把握する能力を持っていれば、目の前の事象がどのような意味を持っているのかということが判断できます。
なんとなくこれは真実とは違う方向に進んでいると感じる、その感覚が大切なのです。
そのためにはどうすればいいのか。
とにかく多くの文章に触れるしかないでしょう。
細切れの時間であっても、論理に裏打ちされた文章との格闘をする。
それくらいの気持ちが大切です。
その時間の堆積が、有効な直観力を生むのです。
この内容だけで、800字になりますか。
一度試してみてください。
問題提起、意見、理由、具体例、結論といくつかのパートに分けてまとめることです。
まずやってみる。
信頼できる先生に添削をしてもらう。
この繰り返し以外に成功への道はありません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。